2019年1月20日日曜日

旧朝倉家住宅の庭の「臼石」






■ヒルサイドテラスの…

旧・Web中、「重要文化財 旧朝倉家住宅によせて」>「旧朝倉家住宅とは」
https://web.archive.org/web/20140322062243/http://d-hillsideterrace.com:80/contents/old.html

に
「(4)(5) 旧朝倉精米所で水車を使い精米した石臼の一部を庭石に使用」
とのキャプション付の2枚の写真がある。



旧Web;写真(4)
旧Web:写真(5)

ただし、写真(5)の方は、「伽藍石」といって、お寺の伽藍などの柱を支える基礎石(ここのは、おそらくそれを模したもの)で(鈴木報告書*p.34参照)、いかなる意味でも「臼の石」ではない。
 
*東京大学大学院工学系研究科建築学専攻鈴木研究室「旧朝倉邸(渋谷会議所)調査報告書(仮)」2002年3月
 
■それに対し…

主庭の踏み分け石に使われている石は、中央の穴があけられ、その中心に鉄の部品がはめ込まれている。 






















実は、これと同じ石材は、中庭にもあるが











 これら2つの石材は、中央の鉄材があることからも、まず間違いなく、鉄材を軸受けとする「臼の石」である。
しかし、これも、朝倉精米所で、米を白米にする、つまり舂米に使ったものではありえない、

■なぜなら…

これは、小麦や蕎麦の実を製粉、つまり粉にしたり

石森製粉株式会社ビル前(中野坂上)
同社は蕎麦粉の製粉会社である
http://www.ishimori-seifun.co.jp/profile/gaiyo.htm






















  火薬の原料を、粉砕したり、混和・圧延したりするための「碾臼」用の石だからである。

西欧の黒色火薬製造用挽臼 Gun powder mill 
この黒色火薬製造用の回転式の碾臼は、我が国でも、カヤクジャパンで「エッジエッジランナー型圧磨機」が今も使われている。



 
なお、中国にも、タービン型の水車を動力とする、同様のメカニズムの
「水碾」
http://b2museum.cdstm.cn/ancmach/machine/ja_44.html 
という挽臼がある。

火薬の起源は中国にあるといわれているので、
あるいは、この水碾の技術も西欧に伝播したのかもしれない

つまり、 先の2つの石は、その形状からみて、小麦などの顆粒状のものを粉に挽くための臼の部材で、2個一組で使われていたものと思われる。

  なお、挽臼といっても、従来から我が国の水車場で使われ、小麦や蕎麦を挽いていたものは、一般的な石臼の上部を水車の動力で水平方向に回転させるタイプであるが、こちらは、こちらは西洋式の2つ1組の円盤を円を描くように旋回させて、下に置かれた盤の上にある原料を押しつぶしながら挽くタイプのもの、ということになる。

■一方…

 朝倉水車の臼は
「水車台帳」*によれば
31 朝倉徳次郎 水車 〔南豊島郡〕
所有主住所 南豊島郡下(ママ)渋谷村七四九番地
水車所在地 南豊島郡中渋谷村字猿楽塚(七四九番地)
水 車 場 竪九間×横四間三尺
  〔規模〕 水輪径二丈
       堰高一尺八寸
  〔業種〕 精米業(営業用)擣
        擣臼(三斗張以上)三九台
        擣臼(三斗張未満)一台
  〔引用〕 玉川上水三田用水大崎(ママ)分水路
  〔沿革〕 明治七年(一八七四)四月(新設)許可
        明治二一年(一八八八)三月継年期

*鈴木秀行外「近代東京の水車―明治・大正期における多摩川流域の水車分布- 」とうきゅう環境財団/1992・刊<http://www.tokyuenv.or.jp/wp/wp-content/uploads/2011/04/65ce837a62533de5c3be5e104f15b68f.pdf>
 
とあるように、杵を、水車の力で持ち上げて、それを落して、玄米の表面の糠を剥がして白米にするための擣臼なので、 機能も、メカニズムも全く異なる。

結局、この石は、「(朝倉)虎治郎は面白い石が手にはいると庭においていた」(鈴木報告書p.19)ので、その「面白い石」の一つだったのであろう。

 
■それでは…
 
この臼石が、もともとは、どこにあったのかが問題になる。
 
旧朝倉家住宅の近隣で、このタイプの臼があったことが判明しているのは、海軍(後に陸軍)火薬製造所(現・艦艇装備研究所等)であり、幸いにして、明治21年に圧磨機(ただし、後掲「小坂」によれば動力は蒸気)を増設したときの図面が、国立公文書館に保存されている。
 海軍火薬製造所の「圧磨器」
 
国立公文書館・アジア歴史資料センター・蔵
 レファレンスコード C10124507000
「明治21年12⽉27⽇ 圧磨室建築落成に付御届の件」





左下の図面に記載されている寸法を基に、比例計算で円盤の直径と厚みを求めると…
























 
直径は1440ミリ/厚さは500ミリほどである。

■そこで…

折をみつけて、旧朝倉家住宅の庭の石の寸法を測定*してみた。

*この庭も、その「石造物」も、旧朝倉家住宅と同時に重文指定を受けており、金属製のスケールでは一部である石を傷つける畏れがあるのため、グラスファイバー製の折尺を使用している。

・前庭の石

直径は1110ミリ




厚さは踏面で180ミリ、石材は〔推定〕240ミリ
 ・中庭の石

直径は主庭のものとほぼ同じ
厚さは庭に下りられないので測定できなかった

 と、いずれにしても、明治21年の圧磨機の石とは別物であることがわかった。

■こうなると…

他の可能性を探るほかないのだが、

1 明治14年の火薬製造所開設当時の圧磨機の石の可能性

先の明治21年に導入された圧磨機は、明治10年代初期、同製造所が設置された当時に導入されたそれに増設されたものであり、当初のそれは明治21年設置のものより小型だった可能性がないではない。
もっとも、これらの圧磨機は、もともとドイツ人の技師であるカール・ヤウスが4台設置するものとして設計し、そのうち2台が明治14年に設置され、同21年にさらに2台追加設置されたもののようなので*、明治14年設置のものも上記の明治21年のそれと同一の仕様のものである可能性が高い。

*小坂克信「日本の近代化を支えた多摩川の水」とうきゅう環境財団/2012・刊<www.tokyuenv.or.jp/archives/g_research/日本の近代化を支えた多摩川の水>  p.125

2 近隣の、明治以降に「碾臼」を使用した水車場の可能性

(1)
近隣でこの種の西洋式の挽臼が使われていた可能性のあるもう一つの場所としては、旧原宿村120番地〔現・神宮前3-30〕にあった「石村竹次郎水車」を挙げることができる。
享保18〔1733〕年に始まるといわれるこの水車は、明治40年、従前の舂米用から、鉛筆の芯に使用する黒鉛を砕く用途に変更され、大正2年まで稼働していたという*。

*東京都渋谷区立白根郷土文化館・編「渋谷の水車業史」同区教育委員会/S61・刊 p.36、p.87「4」

ただし、「水車台帳」では、原宿村120所在の水車は、#745で、M40廃業。石村水車は、#106で、原宿356所在とされている。


 (2)
当地から、やや距離はあるが、やはり碾臼を使用していた水車場が、現・世田谷区太子堂に2箇所あった。

黒鉛用が、「水車台帳」#1087
 世田谷村大字太子堂字下本村26番地、後に烏山用水(川)対岸の同村同大字字下ノ谷285番地1・2
 ただし、TO2年当時は精穀専業

小麦用が、「水車台帳」#1083
 同村同大字字下本村62番地2



と推定されるが、廃業時期その他の詳細は不明である


【追記】

陸軍板橋火薬製造所で使われていた、ベルギー製圧磨機の石を使用した記念碑
こちらの石は、大理石製(出典不詳)
 https://itabashi-kanko.jp/midokoro/historic/s-05.html
で、
径2540ミリ、厚さ350ミリ、有効幅280ミリ*

*小林保男「板橋火薬製造所の一考察」〔板橋区立郷土資料館紀要 Vol.7(1987年度版)〕
 /同区教育委員会・刊〕p.30 〔小坂克信氏よりご提供〕


 【追々記】

海軍目黒火薬製造所では、火薬製造のために搗臼も使われていったらしい。

めぐろ歴史資料館・蔵


圧磨機とどのように使い分けられていたのかは、まだ不明。






2019年1月12日土曜日

旧朝倉家住宅建築当時のインフラ

■旧朝倉家住宅について…

とくにその建築当時のインフラ、つまり
電気
ガス
水道

 そして
電話
について検討してみた。

■電気

旧朝倉家住宅の着工は、施主の朝倉虎治郎氏のタキ夫人が記帳していた「本宅新築支払控」(以下「支払控」)によれば、大正7年7月ころである。



朝倉徳道「猿楽雑記」同/H17・刊 口絵


その当時、当地に電気が供給されていたことは

豊多摩郡役所・編「東京府豊多摩郡誌」同/T05・刊 p.521
 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874656/282
の「朝倉精米所」の条に
「大字下澁谷七百四十九番地に在り、明治七年設立、日本形水車一臺十馬力と電動機十馬力一臺を以て、年額米二萬四千石を精白す。」
とあることから確認できる。

加えて、
同書p.475
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874656/259
によれば、下渋谷650番地に明治38年に東京市電気局澁谷發電所(火力)が設立されていることから、ここの電気を引いた可能性が高い。


T07測「東京府豊多摩郡澁谷町平面圖」抜粋

ただし、東京電力「関東の電気事業と東京電力 電気事業の創始から東京電力 50 年への軌跡」同社/2002・刊 p.200 によれば、
東京電燈、東京市電気局、日本電燈が過当競争防止のために締結した「電気供給区域及料金其他ノ供給条件ニ関スル契約」(三電協定)が大正6年10月に効力を生じた結果、豊多摩郡澁谷町は、東京電燈の「普通供給区域」として、同社以外は新規の電力供給契約は結べなくなった。
もっとも、ここは、東京市電気局も「特別供給区域」として、従来からの顧客に電力を供給することは可能だった。
*「三電協定」の詳細は 東京市「東京市会史 第4巻」同市会事務局/S10  p.921-
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272293/477

また、支払控にも、「デンキ 高?橋」との記録がある(大正8年10月10日支払など)

 
2階座敷の間仕切り上部の吊束の側面の灯具
後から束の中に電線を通すのは困難である


■ガス

当地にガスが供給された時期については、東京ガスの社史(2篇)によっても判明しなかった。
しかし、
東京大学大学院工学系研究科建築学専攻鈴木研究室「旧朝倉邸(渋谷会議所)調査報告書(仮)」2002年3月(以下「鈴木報告書」)中の「旧朝倉邸(渋谷会議所)関連年表」の「行:大正9年/列:旧朝倉邸」の末行によれば「台所の煙だしは後からつけれた」とされている。



炊事にガスを使うのであれは通常煙だしは不要であり、せいぜい窓を一部開ける程度ですむので、少なくとも当初はガスが供給されておらず、薪を燃料して竈で炊事をしていた可能性が高いといえる。

もっとも、ガスがあっても、炊飯や大量の湯を沸かすときだけは竈を使う例もある。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――
【資料映像】



杉並区梅里の眞盛寺の施餓鬼法要(2010年7月16日)の折の同寺庫裏
檀家など参加者に振舞うため、大量の素麺を竈で茹でる
庫裏の煙だし
小石川高田老松町にあった細川侯爵家の「鶴亀の邸」のそれを大正末に移築したもの

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

しかし、旧朝倉家住宅の杉の間の床の間には、いわば「とって付けたように」ガス栓が2つも取り付けられている。

目の粗い畳は、田舎家の筵を模したのであろうか

床の間にガス栓を、しかも2つも付けるというのはやや乱暴な話であり(しかも見切りもなしに壁から直出し)、


建築当初から屋内にガスを配管するのであれば、ガス栓の配置や取り付け方法に相応の配慮・工夫があって然るべきであり、やはり、ガスは建築後に引かれた見るべきだろう。


















 *鈴木報告書p.17に「朝倉邸が建設された当時、すでに暖房があったが、虎治郎はこの屋敷には使わなかった。それがいまとなっては、木材の傷みを抑える結果となった。」とあるが、このストーブ以外の用途は考えにくい2個のガス栓とは整合しない。その「暖房」とはスチームなどによる集中暖房を指しているのだろうか?
 【追記】190321
 

 ガス栓は、他にこれといった用途は考えにくいので(まさか、ここですき焼きをしたとも思えない。また、虎治郎氏が所用で帰宅が遅くなったときに鍋料理を食べたのは、主屋北東隅に女中部屋と並びの部屋といわれる〔鈴木報告書p.24〕)、ストーブ用としか考えられないが、ガス栓を2つ並べるというのも異例であろう。

     ふと思いついたことがあって、3月15日に、現場を確認してきた。
     旧朝倉家住宅の、おそらく他のほとんどの部屋は、外壁線から見ると、順次、

    雨戸-ガラス障子-(廊下)-障子ー部屋
    
となっていて、外壁線と部屋との間は、雨戸を開けた状態でも、ガラス障子と障子という2つの建具がある。

     しかし、杉の間の場合、雨戸の内側にガラス障子がなく、すぐ障子となっている。
 
 
 つまり、雨戸を開ければ、障子1枚が冬の寒さを防ぐことになるし、さらに、この杉の間は(おそらく、盛土された)崖線の直上で、目黒川の谷からの風が吹きつける位置にある。

 この部屋は、虎治郎氏が、陳情客を応接した場所といわれており〔同p.32〕、当主の趣味には合っているとしても、いくら目下とはいえ(親戚筋など目上の客は南西の応接室に〔同p.23〕、議会や地元の政治団体である公友会の同輩・同志は2階の座敷に通し〔同p.19〕、時として宴会を催したようである〔関係者からの聴き取り結果〕)客には過酷すぎる環境といえ、それがストーブを2台置く結果になったのではなかろうか。
 ■水道

当時、この地に近代水道かなったととは、ほほ間違いがない。
この地に給水した、澁谷町水道が正式に開通したのは
渋谷町水道部編「上水道布設記念碑写真帖」同/S02・刊
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112061
によれば大正13年3月だからである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112061/4

もっとも、
復興局「大正十二年 関東大地震震害調査報告(第二巻)上水道・下水道・瓦斯工事之部/鉄道・軌道之部」土木学会/S02・刊
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268668
のp.30
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268668/25
に、よれば

西郷橋付近の、(旧)鉢山492番地先で
「三田用水路決壊のため築堤部の道路を押し流し埋設管を露出するに至り鐵管としては被害なきも甚危険に付一時斷水す」とあることから、正式な竣工前ではあるが、当時すでに今の旧山手通りの前身にあたる道路に18インチの「本管」が敷設され、通水されていたことがわかる。



澁谷町会議員であった虎治郎氏は、この水道の水道布設委員だったので
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112061/17
【参考】渋谷町臨時水道部「施工中に在る澁谷町水道」同/T11・刊 
https://books.google.co.jp/books?id=xlkfJyDkWW8C&pg=PP480&dq=%E6%96%BD%E5%B7%A5%E4%B8%AD+%E6%B8%8B%E8%B0%B7+%E6%B0%B4%E9%81%93&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwio8eWxuOffAhUEBIgKHTctBxMQuwUIKzAA#v=snippet&q=%E5%A7%94%E5%93%A1&f=false
    
45ページ目口絵
「水道部前に於ける理事者及水道委員の一行(大正11年9月撮影)」
と題する写真の中列中央の虎治郎氏

水道水の利用が可能になり次第、率先垂範して、自邸に引水したのではないかと想像されるのであるが、着工が大正10年5月なので、いずれにせよ旧朝倉家住宅の完成には間に合わない。

となると、問題は、当初旧朝倉家住宅ではどのように水を確保したのかにある。

まず思いあたるのは、当ブログの

旧朝倉家住宅と三田用水
https://sarugakuduka.blogspot.com/2019/01/blog-post_5.html

で触れた、三田用水の水なのであるが、雑用水や庭水ならば別として、用水の、いわば多摩川の水そのものを、そのまま飲料水として使うのには無理があったと思われる。
現に、
サッポロビール株式会社広報部社史編纂室「サッポロビール120年史」同社/H08・刊 p.172
によれば、同社の前身である日本麦酒も、明治35年以降は、沈澄池を設けてそこに一旦水を貯めて、不純物を沈澱させた上澄みの水を(おそらくは、さらにろ過して)使っているのである。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――
【資料映像】

浜田徳太郎編「大日本麦酒三十年史」同社/S11・刊 口絵
手前中央がM35築造の沈澄池(第一貯水池)、左奥がM44築造の第2貯水池
―――――――――――――――――――――――――――――――――――

個人の住宅にそういった施設を備えることは、費用の面でも、メンテナンスの手間を考えても非現実的で、「商家」である朝倉家としては経済的合理性に従って井戸水を使ったと考えられる。

当地は、目黒川と渋谷川の間の稜線部に位置するとはいえ、同じ条件下にある小田急線の東北沢駅付近の例からみても意外に地下水位は高い位置にあり、井戸水の確保に困ることはなかったと思われる。

現に、前掲の支払控を見ても
「井戸」(大正9年5月31日)と
「ポンプ」の代金が計上されており(大正9年11月14日)

* 「ポンプ」の支払額は、572円90銭であるが
 桑井いね「おばあさんの知恵袋」文化出版局/S51 ・刊 pp.174-175 によれば、昭和2年当時、日立製の井戸ポンプが550円とだったとされていることから、この朝倉家が購入したポンプが電動式だったことがわかる。

不純物の少ない井戸水と電動ポンプがあったからこそ、2階

2階トイレ内の洗面器

や、1階でもいわゆる水場から離れた場所に洗面所を設けることができたのであろう。

1階「応接」南西脇のトイレ内の洗面台
水栓と洗面器は後世に変更されている


現在の邸内の井戸


【追記】

当時、電動の井戸ポンプが市販されていたことは

T08年04月08日発行の官報(2001号)12面
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954115/12
に
「レコート揚水用ほんぷ」「▲働力モーター用もあり」
の公広告が掲載されていることからも明らかである。


しかも、このイラストのポンプ。(多かれ少なかれ、原理的に似たようなものになるとはいえ)今も旧朝倉家住宅の庭に放置されているそれと、ほぼ同じ形状である。

下部の左側に地中への配管が見える
右側のプーリーをベルトを介してモーターで回したのだろう

*小泉和子「昭和台所なつかし図鑑」(平凡社/1998・刊)p.20 によれば「井戸を水道のように使うために開発されたのが電動ポンプである。大正七年には日立製作所が、昭和六年には東芝が製造を始めた。」たという
 当然、それ以前から、輸入品は入手可能だったはずである。
 もっとも、上記の「レコートぽんぷ」も(実用)新案番号が書かれているので、国産品と思われる。


【追々記】

 目黒区Webの「歴史を訪ねて 碑文谷池・清水池」
http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/rekishi/chuo/himonya.html

中の図「区内地下水分布」(旧朝倉家住宅の位置を赤矢印で補入)


昭和35年という戦後の経済成長ともなう地下水位の低下が懸念され始めた時期の調査であるが、それでも当地の地下水位の標高は、25メートルを超えている。
(また、水色「2」に塗られていない地域は、地下水位が地表面から6メートル以浅)

地盤の標高は31メートル程度であるから、大正期であれば、実用揚程8メートルの浅井戸用のポンプで汲み上げや邸内への配水が可能だったことになる。

【追々々記】

この、「美珍麗・探訪」というブログ
https://mosu3.blog.fc2.com/blog-entry-117.html?sp
の、この右側の写真
https://blog-imgs-76.fc2.com/m/o/s/mosu3/2015022815385369a.jpg
を見ると…

不覚にも、いままで気づかなかったのだが、ポンプの東側に圧力タンクが残っていることがわかった。

これで、渋谷町水道ができるまでは、この井戸ポンプ・システムが、旧朝倉家住宅の水を賄っていた可能性が高まった。

こうなると、ポンプやタンクの銘板を確認して、製造者や製造年を調査する必要性が出てくる。


■電話

当時の最新の情報インフラだった*電話は、同時にいわゆる「お金持ち」のバロメータの一つだった。

  *ラジオの本放送は大正14年3月開始

交詢社の日本紳士録の第8版(M35)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780097/5
では、当時は、所得税が、公債、株式、債券などからの所得に課されなかったため、これらを主に保有する資産家の掲載もれを防ぐ目的もあって、電話加入者はほぼ無条件で掲載しているほどである。

本ブログ
交詢社「日本紳士録」にみる朝倉家
https://sarugakuduka.blogspot.com/2019/01/blog-post_6.html

のとおり、虎治郎氏は、下渋谷1220在住時から電話に加入しており、
この回線は、同796の(前?)徳次郎氏本宅への移住時にも、保有したまま移設していてることのなる。

旧朝倉家住宅の竣工後には、当然この電話もそちらに移設することになったはずであり、その南東端、台所と中廊下を挟んで西向かいの「事務室」と呼ばれる8畳の和室の南側壁面には、そのための半間(柱の中心間で約0.91メートル)の凹みが設けられ、その奥の壁面に、電話器を取り付けるための板が張られている。



この時点では電話番号は、長芝1130になっていたが
例:T11年版 p.749
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1703976/397
   この時期になると、実弟かつ義弟である八郎氏も掲載されている

さらに下った、
中央区の京橋図書館のアーカイブにある大正15年版の電話番号簿
https://www.library.city.chuo.tokyo.jp/pdf/archives_tel/taisyou15/008_a_01.pdf
によれば、以下のとおり、朝倉家は、店舗を含め4回線の電話に保有するに至っている。

朝倉虎治郎商店        青山36-6247/青山36-2309  豊,下渋谷,749
朝倉虎治郎住宅        青山36-5886        豊,下渋谷,796
朝倉虎治郎商店 中渋谷出張所 青山36-1299        豊,中渋谷,88

2019年1月6日日曜日

交詢社「日本紳士録」にみる朝倉家

■初期の…

交詢社「日本紳士録」によれば

初版 M22  掲載なし

2版 M25  掲載なし

3版 M29  p.647
 徳次郎氏
 水車業
 税7.980 地租 53.650
 下渋谷796
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780092/398

4版 M30 p.590
 徳次郎氏
 水車業
 税 8.010
 下渋谷796
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780093/357

5版 M32  p.470
 徳次郎氏
 水車業
 税 7.990
 下渋谷796
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780094/306

6版 M33  p.525
 徳次郎氏
 水車業
 下渋谷796
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780095/312

7版 M34 p.593
 徳次郎氏
 水車業
 下渋谷796
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780096/346

と、ここまでは、徳次郎氏が、おそらく「多額納税者」枠で掲載されている。
次版からは、徳次郎氏にかわり、虎治郎氏が掲載されるようになり、しかも、職種、住所に変化が生ずる。

8版 M35 p.520
 虎治郎氏
 商業
 税 5
 下澁谷1022
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780097/315

9版 M36  掲載なし

この間、国会図書館のデジタルデータではトレースできず

12版 M41  p.620
 虎治郎
 丸朝商、精米業店
 税 54×120(所得税×営業税)
 下澁谷1022
 電話 新(橋)2430
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780100/360

■この…

下渋谷1022 *という場所は
渋谷橋のすぐ脇にあって、下渋谷796に比べれば繁華だった場所であるうえ、



朝倉家の従前の菩提寺である、曹洞宗福昌寺(猿楽雑記p.96)から中通り(現明治通り)を挟んで至近の場所でもある


明治44年のいわゆる「郵便地図」
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home51files/Shibuya-Toyo_CHOSON/Shibuya-Toyo_CHOSON_kmview-zoom.html


明治7年に朝倉水車を開業するまでは、朝倉家の本拠の地だった可能性がある。

*東京市区調査会「東京市及接続郡部地籍台帳」同/M44・刊
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800934
 では、この下渋谷1022は掲載地域外となっている



大正中頃の中通り(明治通りの原型)の開通で1022番地は分断された





















分断された1022番地のうち、東半分は、ほぼ明治通りに取り込まれ、西半分は最西端が、東3丁目60番地の一部になっている模様である。

【追記】

13版 M42  p.646
 虎治郎
 丸朝商店、精米業
 税 116×215(所得税×営業税)
 下澁谷796
 電話 新(橋)2430
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780101/373


【追記】

ここまでの時期については、あまり関連はなさそうなのだが、

朝倉徳道編著「猿楽雑記」同/2007・刊

掲載の一族の集合写真をみると、交詢社と縁の深い「慶應だらけ」である。


2019年1月5日土曜日

旧朝倉家住宅と三田用水

■旧朝倉家住宅の…

庭に、三田用水の水が引き込まれていたことは、ほぼ定説であり、

現在もその水路の設えが残っている

渋谷区制作の案内図に水路跡を黄色で補入
 





ほぼ「源流部」


源流から少し下がったあたり
左奥に円形の四阿がかつてあったらしい







最末流の目切坂道直上の排水口
 


この水路に水を流すことができることは、渋谷区が、平成17年に東京農業大学の協力を得て実施して実験結果*によっても、ほぼ確実といってよい。

* 渋谷区教育委員会「旧朝倉家住宅保存管理活用計画案策定報告書」H17 p.45

■いうまでもなく…

朝倉家が、明治7年、金蔵氏の代に、、いわゆる朝倉水車を新設して三田用水の水の利用者と
なったことは明らかであるが、三田用水の管理者である三田用水組合、後の三田用水普通水利組合にとっては、明治期には、水車用水と庭園用水とでは、全く別系統の取扱いとしていたようなので、とくに庭園用水について何か手掛かりがないか、

三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/昭和59年・刊

を改めて読み返してみた。

■同書では…

朝倉姓の人物については、以下のように言及されている。

①p. 74 朝倉虎次郎:昭和4年11月の「笹塚弁財天嗣堂建立之碑 」発起人の組合議員の一人として
②p.104  朝倉虎次郎:大正2年度「三田用水普通水利組合費徴収簿」記載の
             堤塘及水路使用料10円の負担者として
③p.111 朝倉徳次郎:同上
             用水使用料金10円の負担者として
④同   朝倉佑次郎:同上
             用水使用料金15円の負担者として
             
■このうち…

①は、関東大震災で損壊した三田用水の取水圦復旧工事の完成記念碑建立の発起人であることを示すだけであるし

④の佑次郎なる人物については、
・朝倉徳道「猿楽雑記」同+朝倉不動産/2007年・刊
にも
・Wiki「朝倉虎治郎」<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E8%99%8E%E6%B2%BB%E9%83%8E>
にも言及がなく、朝倉徳次郎/虎治郎家との続柄が不明(ただし、下渋谷在住)なので

ひとまず措くことにすると、問題は②と③ということになる。

まず、②の「堤塘及水路使用料」とは、三田用水普通水利組合の水利権とは別の水利権などを持つ者が、三田用水の水路をいわば「借りて」水を引用するために、組合に対して支払う「水路の使用料」であり、電気に例えれば「電力の託送料金」にあたるものである。

これに対し、③の「用水使用料金」の方は、「電力料金」と同様に、組合の水そのものを使用するためのいわば「代金」なので*、両者は性格が全く異なっている。

* ただし、この時期になると、おそらく水車が激減しはじめたためと思われるが、庭園水と水車用水は、「用水使用料金」という同一費目に計上されるようになっている

■そうなると…

③については、明治7年から続く朝倉水車のための用水使用料の可能性が高い。
  • この水車については、明治21年の時点で、徳次郎氏名義で継年季願が提出されているので、それがおそらく7年ほどごとに踏襲されていたと考えられ*
  • かりに、その後、この水車の設置許可が虎治郎氏に承継されたと仮定すると、この大正2年の段階で徳次郎氏が組合に水の使用料を支払う理由は考えにくい
からである。

*なお、大日本帝国陸地測量部の1万分の1地形図「三田」を順次トレースしてみると
 「明治42年測圖、大正10年第2回修正測圖同14年部分修正」では、朝倉水車の位置に水車記号があり
 「明治42年測圖、昭和3年第3回修正測圖」では、水車記号が消えている。
 もっとも、先の大正2年に徳次郎氏が支払った用水使用料金10円であるのに対し、「江戸の上水と三田用水」p.107の水車用水の算定基準に基づいて明治21の継年季願当時の朝倉水車の擣臼(3斗張以上)39台+擣臼(3斗張未満)1台分の使用料を計算すると15円10銭となるので、この大正2年の時点までに、電力の導入によって水車場の規模が縮小されていた可能性が高い(水の使用料は、水車それ自体や水車場の建物のサイズに関係なく、臼の数で決まる。単に「従前より臼を減らした」というのではなく「モーターを入れたので従前ほどの水車の臼の数は不要になった」との申告であれば、組合としても疑いを差し挟むのは難しい)。
 なお、同郡役所「東京都豊多摩郡誌」同/T05・刊 p.521
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874656/282
 「朝倉精米所」の条に
 「大字下澁谷七百四十九番地に在り、明治七年設立、日本形水車一臺十馬力と電動機十馬力一臺を以て、年額米二萬四千石を精白す。」
 とある。
  
しかし、そうだとすると、逆に、この大正2年の時点で、虎治郎氏が
  • 先のように、水利権を取得し*
  • 組合に「堤塘及水路使用料」を支払ってその水を引く
*玉川上水の水を引用することになるので、別途、東京府に水の代金を支払う必要がある

目的は何だったのか、が問題になる。

■ここからは…

推測、よくいっっても仮説の域を出ないのであるが、まずは、その前提となる、これまでに判明しているいくつかのデータをあげておくことにする。

・旧朝倉家住宅の建築に着手したのは、大正7年6月である。

 このことは、前掲「猿楽雑記」の口絵写真のうち、大正7年の「本宅新築支払控」から確実。
 ただし、それに先だって、住宅建築を見越して敷地の整地、とくに南西端の杉之間のあたりに盛土したことは、地形図からも推測できるが、














































それも、徳次郎氏が大正5年に没した後であり、先の大正2年からは3年後のことである。

・旧朝倉家住宅の庭園の大半を占める西側の目黒区内の土地は、
  朝倉家としては明治30年に
  虎治郎氏としても明治32年に
 取得していた

  このことについては、当ブログの「吉永郡蔵と朝倉家」で指摘したとおり。

  この土地は、徳次郎氏の本宅(上記「…継年季願附図」参照)や同氏の隠居所(ヒルサイドテラス・アネックスの所にあった―「猿楽雑記」p.19)とはいわば地続きなので、このころから造園にとりかかっていて、その一環として渓流を作るため、水利権を取得した可能性もある。

    東京大学大学院工学系研究科建築学専攻鈴木研究室「旧朝倉邸(渋谷会議所)調査報告書(仮)」2002年3月
     p.44 によれば、旧朝倉家住宅の造園や庭園の管理をしていた東光園の創業者の田丸亀吉は、明治38(1905)年に

 貸植木業を開業し、その後造園業に転じているという。

■やや時代が下った…

旧朝倉家住宅の着工直前の大正7年測量の「5000分の1 東京府豊多摩郡澁谷町全圖」によれば

 
 
749番地の北西隅の朝倉精米所の水車のための三田用水路からの分水路、猿楽塚の北東に水車でを回した水を三田用水路に戻すための水路(帰水路)が描かれているほか、その帰水路と三田用水路の合流点から南東方向への分水路が描かれている。
 
この分水は、先の旧朝倉家住宅の敷地の水路の源流部の方向に向かっているが、旧朝倉家住宅の建築工事の際に、造園業者である東光園が工事に参加したのは、大正9年5月ごろなので、冒頭の水路が旧朝倉家住宅の新築時に開鑿されたとすると、時期的に整合しない。
したがって、それまで、引水した三田用水の水をどのように処理したのかが問題となるのである。
 
 



2019年1月4日金曜日

吉永郡蔵と朝倉家

〔先の…〕

三田用水坂(本)口分水をめぐる裁判の判決

の原告である

目黒村上目黒927番地
 吉永郡蔵


なる人物の消息が、2つのルートから見つかった。

■一つは…

「水車台帳」つまり

松本芳行「近代東京の水車 -明治・大正期の多摩川流域尾の水車分布-」1992
http://www.tokyuenv.or.jp/archives/a_research/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E3%83%BB%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%9C%9F%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%B7%9D%E6%B5%81%E5%9F%9F%E3%81%AE%E6%B0%B4%E8%BB%8A%E5%88%86%E5%B8%83%EF%BC%8D%E6%B0%B4

のリスト中

#1169〔pp.508-509〕

の下記の水車の所有者であったことが判明した。

1169 吉永郡蔵水車 〔荏原郡〕
  所有主住所 日本橋区茅場町八番地
  水車所在地 荏原郡目黒村上目黒字駒場九二七番地
   〔規模〕 水輪径一丈二尺
        無堰
   〔業種〕 精米業(営業用)
        搗臼(四斗張) 一九台
   〔引用〕 玉川上水三田用水駒場分水路
   〔沿革〕 明治一四年(一八八一)七月継年期
         明治一九年(一八八六)四月業種変更
         搗臼(四斗張)九台(馬力一・五)
         糸繰器械六台
         撚糸器械一台   (馬力〇・六)
          (前)搗臼(四斗張)一六台
         明治一九年(一八八六)七月業種変更
         搗臼(四斗張)一五台
         糸繰器械四台
         撚糸器械一台
         明治二三年(一八九〇)六月業種変更
         擦臼(四斗張)一九台
         糸繰器械四台
         撚糸器械一台
         明治二三年(一八九〇)八月頭書業種に変更
         明治二九年(一八九六)七月継年期

        *1

(参考一)
      (明治十九年四月十四日)
     水車器械転換願
             荏原郡上目黒村九百二十七番地
                     吉永群造
            指 令 按

    書面願之趣聞届候条、着手幷落成之節共猶当庁土木課江届出可受検査事。

 (理由)本文水車ハ三田用水分水ニシテ米搗器械御許可相成居候杵数十六本ノ内、四斗張九本及糸繰器械七台ニ変換候迄ニテ、水堰之設アルモノニ無之水路ニ差支無之、同営業者連署ヲ以テ願出不都合之聞モ無之候 

但税金之儀ハ糸繰器械之分ハ馬力二依リ、米搗器械之分ハ杵数ニ依リ徴収之積
       (但総馬力二・一分
        内糸繰器械ノ馬力〇・六分)。

 
(参考二)
      〔水車願書取下ケ願〕
昨明治二十二年八月五日及九月十八日付其他数通書面以テ水車被害宗田亀次郎及池上米蔵二係ル事件二付懇願仕候処、今般南豊島郡渋谷村三井八郎左衛門外二人ノ仲裁ヲ以テ双方和解仕候二付、昨年中懇願仕候書類悉皆御下ニ被成下度此段奉願候也。
  明治二十三年七月三十一日
             荏原郡目黒村元上目黒九百二十七番地
                     吉永郡造(蔵)㊞
   東京府知事候爵 蜂須賀茂韶殿



(参考三)
     水車被害之件趣旨
           荏原郡目黒村上目黒九百二十七番地
                 平民 吉永郡蔵
右は芝区日影町宗田亀次郎所有水車*2管理人当邨元戸長池上光蔵二対スル水車被害之件ニ付数回懇願仕候通り、同人不法之所業及願意ノ要点左ニ上申仕候。
一 宅地下用水支線悪水吐ヲ自儘ニ塞ギ、且用水線路ヲ改鑿セシニ付妨害不尠候条、改正図面之通り回復致候様御処置ヲ相願候事。
一 深夜ニ乗シ官道ヲ掘超シ水樋ヲ新設シ、旧樋ノ上端ニ玖人候ニ付是又旧樋ノ位置ニ相直シ候様致度候事。
右は昨明治二十一年六月五日夜自儘ニ該官道ヲ掘超シ水樋ヲ新設シ、且本年八月一日、二日両日ヲ以テ用水ヲ改鑿シ不容易妨害ヲ相受候間、何卒実地御検分之上□口従前之通修復シ候様御処分被成下度、此段上申仕候也。
  明治二十二年十二月十六日       右
                            吉永郡蔵㊞
    荏原郡長 林交周殿

 



*1  「台帳」の記述ではわかりにくいが
 (明治07年ころ 新設ないし継年期申請)
  明治14年    継年期申請
  明治19年    従前の舂米に専業している状態から、水車の動力の一部を製糸に転用
 (明治21年ころ 継年期申請) 
  明治23年    再び舂米に専業
  明治29年    継年期申請
  という経過をたどったことになる。 

*2「宗田亀次郎」は、同じく台帳#638の水車を明治20年に取得している。
  その所在地である、目黒村上目黒字氷川602は、当時駒場農学校(現・東京大学駒場キャンパス)を水源とする空川〔そらかわ〕に、吉永水車が設置されている三田用水駒場分水が合流した直下で、滝坂道(現・略淡島通)に架かる遠江橋南に位置している。
  また、駒場分水の吉永水車の上流に該る、上目黒576には、台帳#755の水車が明治29年に新設されている。
 【以上、下図参照】
   #746は、台帳上567番地が所在地とされているが、このあたりの三田用水の左岸に分水はなかったので、576の誤記
 つまり#755の場所ではないかと思われる






































■もう一つは…

吉永と朝倉家との、土地の売買関係である。

吉永は、三田用水坂(本)口分水をめぐる裁判の判決 にあるように、明治26年に、(朝倉徳次郎家と縁戚と推定される)朝倉倉蔵から、「澁谷村字鎗ケ崎第千百七十番地」の土地を購入している。

その一方で、
東京大学大学院工学系研究科建築学専攻鈴木研究室「旧朝倉邸(渋谷会議所)調査報告書(仮)」2002年3月 中の「不動産リスト」によれば、
旧朝倉家住宅の敷地の南側、庭園の大半を占めている
目黒区青葉台 1丁 目80-1
の土地は
明治30年1月に、朝倉徳次郎の次女である朝倉利勢が、吉永郡蔵から購入し、
その後明治32年4月に、同人〔婚姻後は「河内里せ」〕から朝倉虎治郎が購入した
ことが判明している。

 【以上、下図参照】





































■このように…

吉永と朝倉家とは、ともに、三田用水組合(明治24年の水利組合条例制定後は「三田用水普通水利組合」)管理下の同用水を利用して水車業を営む*3、いわば同業者であることに加え、お互いに土地を譲渡しあうような、かなり近しい関係にあったといえる。

*3 朝倉水車は、水車台帳#31