三田用水坂(本)口分水をめぐる裁判の判決
の原告である
目黒村上目黒927番地
吉永郡蔵
なる人物の消息が、2つのルートから見つかった。
■一つは…
「水車台帳」つまり
松本芳行「近代東京の水車 -明治・大正期の多摩川流域尾の水車分布-」1992
http://www.tokyuenv.or.jp/archives/a_research/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E3%83%BB%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%9C%9F%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%B7%9D%E6%B5%81%E5%9F%9F%E3%81%AE%E6%B0%B4%E8%BB%8A%E5%88%86%E5%B8%83%EF%BC%8D%E6%B0%B4
のリスト中
#1169〔pp.508-509〕
の下記の水車の所有者であったことが判明した。
1169 吉永郡蔵水車 〔荏原郡〕
所有主住所 日本橋区茅場町八番地
水車所在地 荏原郡目黒村上目黒字駒場九二七番地
〔規模〕 水輪径一丈二尺
無堰
〔業種〕 精米業(営業用)
搗臼(四斗張) 一九台
〔引用〕 玉川上水三田用水駒場分水路
〔沿革〕 明治一四年(一八八一)七月継年期
明治一九年(一八八六)四月業種変更
搗臼(四斗張)九台(馬力一・五)
糸繰器械六台
撚糸器械一台 (馬力〇・六)
(前)搗臼(四斗張)一六台
明治一九年(一八八六)七月業種変更
搗臼(四斗張)一五台
糸繰器械四台
撚糸器械一台
明治二三年(一八九〇)六月業種変更
擦臼(四斗張)一九台
糸繰器械四台
撚糸器械一台
明治二三年(一八九〇)八月頭書業種に変更
明治二九年(一八九六)七月継年期
*1
(参考一)
(明治十九年四月十四日)
水車器械転換願
荏原郡上目黒村九百二十七番地
吉永群造
指 令 按
書面願之趣聞届候条、着手幷落成之節共猶当庁土木課江届出可受検査事。
(理由)本文水車ハ三田用水分水ニシテ米搗器械御許可相成居候杵数十六本ノ内、四斗張九本及糸繰器械七台ニ変換候迄ニテ、水堰之設アルモノニ無之水路ニ差支無之、同営業者連署ヲ以テ願出不都合之聞モ無之候
但税金之儀ハ糸繰器械之分ハ馬力二依リ、米搗器械之分ハ杵数ニ依リ徴収之積(但総馬力二・一分
内糸繰器械ノ馬力〇・六分)。
(参考二)
〔水車願書取下ケ願〕
昨明治二十二年八月五日及九月十八日付其他数通書面以テ水車被害宗田亀次郎及池上米蔵二係ル事件二付懇願仕候処、今般南豊島郡渋谷村三井八郎左衛門外二人ノ仲裁ヲ以テ双方和解仕候二付、昨年中懇願仕候書類悉皆御下ニ被成下度此段奉願候也。
明治二十三年七月三十一日
荏原郡目黒村元上目黒九百二十七番地
吉永郡造(蔵)㊞
東京府知事候爵 蜂須賀茂韶殿
(参考三)
水車被害之件趣旨
荏原郡目黒村上目黒九百二十七番地
平民 吉永郡蔵
右は芝区日影町宗田亀次郎所有水車*2管理人当邨元戸長池上光蔵二対スル水車被害之件ニ付数回懇願仕候通り、同人不法之所業及願意ノ要点左ニ上申仕候。
一 宅地下用水支線悪水吐ヲ自儘ニ塞ギ、且用水線路ヲ改鑿セシニ付妨害不尠候条、改正図面之通り回復致候様御処置ヲ相願候事。
一 深夜ニ乗シ官道ヲ掘超シ水樋ヲ新設シ、旧樋ノ上端ニ玖人候ニ付是又旧樋ノ位置ニ相直シ候様致度候事。
右は昨明治二十一年六月五日夜自儘ニ該官道ヲ掘超シ水樋ヲ新設シ、且本年八月一日、二日両日ヲ以テ用水ヲ改鑿シ不容易妨害ヲ相受候間、何卒実地御検分之上□口従前之通修復シ候様御処分被成下度、此段上申仕候也。
明治二十二年十二月十六日 右
吉永郡蔵㊞
荏原郡長 林交周殿
*1 「台帳」の記述ではわかりにくいが
(明治07年ころ 新設ないし継年期申請)
明治14年 継年期申請
明治19年 従前の舂米に専業している状態から、水車の動力の一部を製糸に転用
(明治21年ころ 継年期申請)
明治23年 再び舂米に専業
明治29年 継年期申請
という経過をたどったことになる。
*2「宗田亀次郎」は、同じく台帳#638の水車を明治20年に取得している。
その所在地である、目黒村上目黒字氷川602は、当時駒場農学校(現・東京大学駒場キャンパス)を水源とする空川〔そらかわ〕に、吉永水車が設置されている三田用水駒場分水が合流した直下で、滝坂道(現・略淡島通)に架かる遠江橋南に位置している。
また、駒場分水の吉永水車の上流に該る、上目黒576には、台帳#755の水車が明治29年に新設されている。
【以上、下図参照】
#746は、台帳上567番地が所在地とされているが、このあたりの三田用水の左岸に分水はなかったので、576の誤記
つまり#755の場所ではないかと思われる
■もう一つは…
吉永と朝倉家との、土地の売買関係である。
吉永は、三田用水坂(本)口分水をめぐる裁判の判決 にあるように、明治26年に、(朝倉徳次郎家と縁戚と推定される)朝倉倉蔵から、「澁谷村字鎗ケ崎第千百七十番地」の土地を購入している。
その一方で、
東京大学大学院工学系研究科建築学専攻鈴木研究室「旧朝倉邸(渋谷会議所)調査報告書(仮)」2002年3月 中の「不動産リスト」によれば、
旧朝倉家住宅の敷地の南側、庭園の大半を占めている
目黒区青葉台 1丁 目80-1
の土地は
明治30年1月に、朝倉徳次郎の次女である朝倉利勢が、吉永郡蔵から購入し、
その後明治32年4月に、同人〔婚姻後は「河内里せ」〕から朝倉虎治郎が購入した
ことが判明している。
【以上、下図参照】
■このように…
吉永と朝倉家とは、ともに、三田用水組合(明治24年の水利組合条例制定後は「三田用水普通水利組合」)管理下の同用水を利用して水車業を営む*3、いわば同業者であることに加え、お互いに土地を譲渡しあうような、かなり近しい関係にあったといえる。
*3 朝倉水車は、水車台帳#31
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