庭に、三田用水の水が引き込まれていたことは、ほぼ定説であり、
現在もその水路の設えが残っている
渋谷区制作の案内図に水路跡を黄色で補入 |
ほぼ「源流部」 |
源流から少し下がったあたり 左奥に円形の四阿がかつてあったらしい |
最末流の目切坂道直上の排水口 |
* 渋谷区教育委員会「旧朝倉家住宅保存管理活用計画案策定報告書」H17 p.45
■いうまでもなく…
朝倉家が、明治7年、金蔵氏の代に、、いわゆる朝倉水車を新設して三田用水の水の利用者と
なったことは明らかであるが、三田用水の管理者である三田用水組合、後の三田用水普通水利組合にとっては、明治期には、水車用水と庭園用水とでは、全く別系統の取扱いとしていたようなので、とくに庭園用水について何か手掛かりがないか、
三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/昭和59年・刊
を改めて読み返してみた。
■同書では…
朝倉姓の人物については、以下のように言及されている。
①p. 74 朝倉虎次郎:昭和4年11月の「笹塚弁財天嗣堂建立之碑 」発起人の組合議員の一人として
②p.104 朝倉虎次郎:大正2年度「三田用水普通水利組合費徴収簿」記載の
堤塘及水路使用料10円の負担者として
③p.111 朝倉徳次郎:同上
用水使用料金10円の負担者として
④同 朝倉佑次郎:同上
用水使用料金15円の負担者として
■このうち…
①は、関東大震災で損壊した三田用水の取水圦復旧工事の完成記念碑建立の発起人であることを示すだけであるし
④の佑次郎なる人物については、
・朝倉徳道「猿楽雑記」同+朝倉不動産/2007年・刊
にも
・Wiki「朝倉虎治郎」<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E8%99%8E%E6%B2%BB%E9%83%8E>
にも言及がなく、朝倉徳次郎/虎治郎家との続柄が不明(ただし、下渋谷在住)なので
ひとまず措くことにすると、問題は②と③ということになる。
まず、②の「堤塘及水路使用料」とは、三田用水普通水利組合の水利権とは別の水利権などを持つ者が、三田用水の水路をいわば「借りて」水を引用するために、組合に対して支払う「水路の使用料」であり、電気に例えれば「電力の託送料金」にあたるものである。
これに対し、③の「用水使用料金」の方は、「電力料金」と同様に、組合の水そのものを使用するためのいわば「代金」なので*、両者は性格が全く異なっている。
* ただし、この時期になると、おそらく水車が激減しはじめたためと思われるが、庭園水と水車用水は、「用水使用料金」という同一費目に計上されるようになっている
■そうなると…
③については、明治7年から続く朝倉水車のための用水使用料の可能性が高い。
- この水車については、明治21年の時点で、徳次郎氏名義で継年季願が提出されているので、それがおそらく7年ほどごとに踏襲されていたと考えられ*
- かりに、その後、この水車の設置許可が虎治郎氏に承継されたと仮定すると、この大正2年の段階で徳次郎氏が組合に水の使用料を支払う理由は考えにくい
*なお、大日本帝国陸地測量部の1万分の1地形図「三田」を順次トレースしてみると
「明治42年測圖、大正10年第2回修正測圖同14年部分修正」では、朝倉水車の位置に水車記号があり
「明治42年測圖、昭和3年第3回修正測圖」では、水車記号が消えている。
もっとも、先の大正2年に徳次郎氏が支払った用水使用料金10円であるのに対し、「江戸の上水と三田用水」p.107の水車用水の算定基準に基づいて明治21の継年季願当時の朝倉水車の擣臼(3斗張以上)39台+擣臼(3斗張未満)1台分の使用料を計算すると15円10銭となるので、この大正2年の時点までに、電力の導入によって水車場の規模が縮小されていた可能性が高い(水の使用料は、水車それ自体や水車場の建物のサイズに関係なく、臼の数で決まる。単に「従前より臼を減らした」というのではなく「モーターを入れたので従前ほどの水車の臼の数は不要になった」との申告であれば、組合としても疑いを差し挟むのは難しい)。
なお、同郡役所「東京都豊多摩郡誌」同/T05・刊 p.521
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874656/282
「朝倉精米所」の条に
「大字下澁谷七百四十九番地に在り、明治七年設立、日本形水車一臺十馬力と電動機十馬力一臺を以て、年額米二萬四千石を精白す。」
とある。
しかし、そうだとすると、逆に、この大正2年の時点で、虎治郎氏が
- 先のように、水利権を取得し*
- 組合に「堤塘及水路使用料」を支払ってその水を引く
目的は何だったのか、が問題になる。
■ここからは…
推測、よくいっっても仮説の域を出ないのであるが、まずは、その前提となる、これまでに判明しているいくつかのデータをあげておくことにする。
・旧朝倉家住宅の建築に着手したのは、大正7年6月である。
このことは、前掲「猿楽雑記」の口絵写真のうち、大正7年の「本宅新築支払控」から確実。
ただし、それに先だって、住宅建築を見越して敷地の整地、とくに南西端の杉之間のあたりに盛土したことは、地形図からも推測できるが、
それも、徳次郎氏が大正5年に没した後であり、先の大正2年からは3年後のことである。
・旧朝倉家住宅の庭園の大半を占める西側の目黒区内の土地は、
朝倉家としては明治30年に
虎治郎氏としても明治32年に
取得していた
このことについては、当ブログの「吉永郡蔵と朝倉家」で指摘したとおり。
この土地は、徳次郎氏の本宅(上記「…継年季願附図」参照)や同氏の隠居所(ヒルサイドテラス・アネックスの所にあった―「猿楽雑記」p.19)とはいわば地続きなので、このころから造園にとりかかっていて、その一環として渓流を作るため、水利権を取得した可能性もある。
東京大学大学院工学系研究科建築学専攻鈴木研究室「旧朝倉邸(渋谷会議所)調査報告書(仮)」2002年3月
p.44 によれば、旧朝倉家住宅の造園や庭園の管理をしていた東光園の創業者の田丸亀吉は、明治38(1905)年に
貸植木業を開業し、その後造園業に転じているという。
■やや時代が下った…
旧朝倉家住宅の着工直前の大正7年測量の「5000分の1 東京府豊多摩郡澁谷町全圖」によれば
749番地の北西隅の朝倉精米所の水車のための三田用水路からの分水路、猿楽塚の北東に水車でを回した水を三田用水路に戻すための水路(帰水路)が描かれているほか、その帰水路と三田用水路の合流点から南東方向への分水路が描かれている。
この分水は、先の旧朝倉家住宅の敷地の水路の源流部の方向に向かっているが、旧朝倉家住宅の建築工事の際に、造園業者である東光園が工事に参加したのは、大正9年5月ごろなので、冒頭の水路が旧朝倉家住宅の新築時に開鑿されたとすると、時期的に整合しない。
したがって、それまで、引水した三田用水の水をどのように処理したのかが問題となるのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿