■朝倉虎治郎ら公友会の…
提唱・手配によって明治末期に開鑿された、道玄坂から八幡通りに至るこの道路
赤線が推定:公友会道(別名 朝倉道) |
道玄坂近辺では現存しない。
■円山町にある
道玄坂地蔵の2度の遷座*の経過を調べているうち、その経緯が判明した。
*豊澤=道玄坂地藏の初回の遷座先が、この道路沿い。戦後の区画整理でこの道路が無くなってしまうことが、2回目の遷座の要因らしい。
■この公友会道の…
起源については、以下のように伝えられている。
有田肇「朝倉虎治郎翁事績概要」東京朝報社/S10・刊 pp.40-41発展初期道路改良の苦心は想像も及ばず明治四十二年朝倉〔註:虎治郎。後、渋谷町會、東京府會議長〕が町政改革に奮起し公友會を作った時、公友會の議に依って道路改良が第一番に町是に定められた。其の頃澁谷町の財政状態は未だ甚だ幼稚貧弱であって、児童を教育する小學校舎さへも建て兼ねて居た*のである故、道路改良に手を染めるなどは思ひも及ばぬ事であった。そこで公友會では會自身が之を行ふ事とし、委員を設けて調査研究した結果、縦横各三線の幹道を定め、第一號第區線と稱する今道玄坂上より南千臺鉢山を經て八幡通三丁目に達ずる道路を、開係地主を説きて用地工費共に寄附せしめ、設計書までも添へ之を町に寄附して工事を行はしめた。道玄坂上の入口だけは商家を買ひ潰さればならぬので、其の買収及工事費一萬圓だけ町費より支出したるが、其の一萬圓は町の財政上血の出る様な苦しい金であった。然るに此の道路が出來ると間もなく、ブリ王と稱された貴族院長者議員日高榮三郎が沿道に大邸宅を構へ、一年數千圓の町税を納めた爲め、町は一萬圓の元金を忽に取り戻し、績いて村井貞之助其他の富者が来住し、多額の税金が上り地價も暴騰し、此の一路線の利益は實に莫大なるものであった。若し自動車に便なる此の道路が無かったならば、澁谷町の外廓は貧民窟が先駆をなし、此の方面後年の大發達は恐らくは見ることが出来なかつたであらう。
* 現在の澁谷警察署のあたりにあった、渋谷小学校の維持・運営費は、有志が共同経営していた水車(宮益水車、後には長谷戸〔はせど〕水車)の収益で賄われていた。
前掲図のように、ルートに屈曲が多いのは、道路開鑿の趣旨に賛同し、土地や工事費の寄附に応じた地主の所有地をつなぐ形で道路を設けたため、という。
このころから、澁谷町では、いわば「公共事業費は、将来の町民に払ってもらう」という発想で、開発を進めたいう。*
■戦時中に…
道玄坂周辺は、建物(強制)疎開(S19)によって道路沿いの木造建物が取り壊され、さらに、山の手空襲(S20/05/24,25)によって一面の焼野原になったが、
日本地図(株)「東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示」 渋谷区 緑塗が、建物疎開地域 赤塗が、罹災市域 |
S21に戦災復興院 が策定した「復興都市計画」の一環として、渋谷区上通一帯の区画整理が開始され、その中で、公友会道の1筋東の「冨士横丁」と呼ばれた狭隘な道路*が大幅に拡張される代わりに、公友会道が廃止されたらしいのである。
S22の帝都地形図(黒色)と S31-34の東京都建設局・刊 1/3000地形図「駒場」(赤色) の重ね図 |
*坂下に冨士信仰の扶桑教本部があったことからこの名があるという
上図(黒色部分)でもわかるように、幅員が公友会道の1/4にも満たないような「路地」だが、道玄坂道向かいの円山町には及ばないが、それなりの花街を構成していて、一時期は、牧野富太郎夫人の寿衛が待合「大むら」を経営していたらしい。