2019年1月26日土曜日

新築当時の旧朝倉家住宅

■故朝倉徳道氏が…

刊行した「猿楽雑記」(同氏著/2007・刊)の口絵に
「建物配置図昭和12年頃」
と題された、旧朝倉家住宅と現・ヒルサイドテラスやデンマーク大使館を中心とする、往時の朝倉家所有地の略図がある。

 
 


しかし、この略図に描かれている旧朝倉家住宅の外形は、明らかに現在のそれ(下図)とは差異がある。


「鈴木報告書」(後記)中の、旧朝倉邸1階実測図
 
■朝倉家の方々の…

お話では、冒頭の図は、朝倉徳道氏が作図したのではないかとのことである。

東大の鈴木教授による徳道氏らからの聞き取り結果、言い換えれば、朝倉家に遺る「記憶」については、

東京大学大学院工学系研究科建築学専攻鈴木研究室「旧朝倉邸(渋谷会議所)調査報告書(仮)」2002年3月(以下「鈴木報告書」という)

中にまとめられているが、旧朝倉家住宅の変遷については、

西の廊下と北の廊下の端は、北西の平屋に接続している。この北西の棟は虎治郎の息子誠一郎一家が使用していた。建物は当初、東から風呂場、6畳の居室、8畳の居室からなって いたが、まもなく新しい風呂場が元の風呂場の北側に新設され、昭和15、5年頃に8畳の北側にさらに6畳の居室が増築された 。」

角の杉の間』と次の間の北側には廊下が通され、それを西に進むと茶室があるが、これ は新築当時無かったものが朝倉家の所有中に増築されたものである。茶室の北側には蔵が あり、室内から直接入る。 
茶室は炉のある6畳、北側に控えの5畳(『蔵前(の部屋)』と呼ばれた)という構成だ が、…南西*の棟の廊下から「蔵前」へ至る廊下も後に設置された。」(以上、各p.24)

*杉の間等のある「南西の棟」から蔵前に通じる廊下は、存在しないので「北西」の誤記と考えられる。

と、されている。

■このように…

頭書の図は、朝倉家に遺る「記憶」と整合していることがわかる。

また、朝倉家の方々のおお話では、従前、徳道氏が保管していた文書中に、旧朝倉家住宅の新築当初のものと思われる簡単な図面が存在したとのことである*

頭書の図を拡大すると、下図のとおり、建物の外形が実線と点線で描き分けられているが、単に記憶を再現したのであれば、このような描き分けをすることは考えにくいし、その必要もない。

とくに、蔵が点線で描かれていることからみで、たとえば、図面上で、棟梁だった「大政」こと秋元政太郎の差配する範囲と、他の施工者が差配する範囲**が描き分けられていたので、頭書の図でもそれを踏襲していた可能性が高い。
 


*鈴木報告書作成の資料として同教授に預託したものの、教授がほどなく亡くなったこともあって、その後の図面の消息が不明となっており、朝倉家には現存していない由。

**土蔵も、躯体(骨組)は木造であるが、内部の空間を広くとるために、特に小屋(屋根)の構造が一般住宅と異なるようである(日本民俗建築学会「民俗建築大辞典」柏書房/2001・刊 p.69




















【追記】2023/06/18
都市整図社「火災保険特殊地図 上目黒 No.13」同社/1935・刊
右中央上が朝倉家住宅。当然、徳次郎氏隠居所も残る。
しかし、それよりも、
そのやや左(西)の改修前の旧山手通に面する朝倉精米所と
その南にあった同社の倉庫群の位置などが明らかになったことは貴重である。




■以上の…

 前提を踏まえた、旧朝倉家住宅の当初の姿、いわゆる「原状」は以下のとおりとなる。

 






とくに、家族室のうち、6畳間と元の浴室の部分は、鈴木報告書に従えば「北」、実方位では「略東」方向に半間(0.91メートル)広げられたことになるが、現在 管理事務所として使われている「第2会議室」のこの部分の天井は(実方位の)西側のそれより下がっており、手が加えられていることを明確に示している。

写真右上に天井のf段差が見える



 ただし、難点を挙げれば、浴室が現在のそれに較べやや広すぎるところにある。
わざわざ、新たに浴室


を増築するにあたって、従前より狭いものにすることは、考えにくいのであるが。


2019年1月23日水曜日

旧朝倉家住宅の内玄関東の物置

■地図でみる経緯

M42T05修測_三田抜粋

 この地図をみると、現在の旧朝倉家住宅の建っているあたりは、この時点ですでに宅地化されていることがわかる。
 一方、現ヒルサイドテラスのE棟、C棟、ヒルサイドプラザのあたりは山林。
 この年、徳次郎氏没。同氏の隠居所参考図1】83番にある小さな四角形(参考図2】を見ると実際にはかなり大きい建物)、その
 北の大ぶりな略L字型【参考図2・右上】の建物が同氏の旧宅と思われる。

 この地図の、現ヒルサイドテラスとの境界近くに、物置のような建物が2棟ある

 
 

M42T10修測T12?鉄補_三田抜粋

 旧朝倉家住宅が描かれている。
 上図と等高線を比較すると同建物の地盤を造るために、建物南南西の傾斜地に盛土をしているらしいことがわかる。

 この時点で、上図の物置状の建物の2棟のうち、東側の棟は残存している




M42S03修測三_三田抜粋

 旧朝倉家住宅がなぜか従前より小さめに描画されている。
朝倉精米所は水車記号が消え、完全に電動化していると思われる。

 この時点で八幡通りは拡幅されているので、それに合わせて旧山手通りの原型の道路も目切坂道との交差点付近で約3メートルほど掘り下げられ、三田用水路の、暗渠化や鎗が埼のサイフォン化が行われていると思われる。
 現・ヒルサイドテラス敷地の樹木記号が激減していることから、ここが、掘り下げのため低くなった水路高に合せて、従来の水路の土手を含めて切土されたと想像される

 従前からの物置状建物は、まだ残存している



■丁寧な仕上げ

 以下の写真のように、物置としては細部に凝っていて、大正8年築造の「オリジナル」あるいはそれ以前の築造かどうかは別として「タダモノでない」ことがわかる。


外壁
 
「筅子下見」
 
 基礎の大谷石
 
人工的に「丸み付けををしている
 
 旧朝倉家住宅以前に建築された可能性もあるので、躯体の仕口その他内部の仕上げなど、一度詳細な調査が必要と思われる。

【参考図1】徳次郎氏隠居所

「猿楽雑記」より

【参考図2】徳次郎氏の本宅(右上)、隠居所(左上)の実測図


朝倉家文書より(岩橋勤次氏複写)

2019年1月20日日曜日

旧朝倉家住宅の庭の「臼石」






■ヒルサイドテラスの…

旧・Web中、「重要文化財 旧朝倉家住宅によせて」>「旧朝倉家住宅とは」
https://web.archive.org/web/20140322062243/http://d-hillsideterrace.com:80/contents/old.html


「(4)(5) 旧朝倉精米所で水車を使い精米した石臼の一部を庭石に使用」
とのキャプション付の2枚の写真がある。



旧Web;写真(4)
旧Web:写真(5)

ただし、写真(5)の方は、「伽藍石」といって、お寺の伽藍などの柱を支える基礎石(ここのは、おそらくそれを模したもの)で鈴木報告書*p.34参照)いかなる意味でも「臼の石」ではない。
 
*東京大学大学院工学系研究科建築学専攻鈴木研究室「旧朝倉邸(渋谷会議所)調査報告書(仮)」2002年3月
 
■それに対し…

主庭の踏み分け石に使われている石は、中央の穴があけられ、その中心に鉄の部品がはめ込まれている。 






















実は、これと同じ石材は、中庭にもあるが











 これら2つの石材は、中央の鉄材があることからも、まず間違いなく、鉄材を軸受けとする「臼の石」である。
しかし、これも、朝倉精米所で、米を白米にする、つまり舂米に使ったものではありえない

■なぜなら…

これは、小麦や蕎麦の実を製粉、つまり粉にしたり

石森製粉株式会社ビル前(中野坂上)
同社は蕎麦粉の製粉会社である
http://www.ishimori-seifun.co.jp/profile/gaiyo.htm






















  火薬の原料を、粉砕したり、混和・圧延したりするための「碾臼」用の石だからである。

西欧の黒色火薬製造用挽 Gun powder mill 
この黒色火薬製造用の回転式の碾臼は、我が国でも、カヤクジャパンで「エッジエッジランナー型圧磨機」が今も使われている。



 
なお、中国にも、タービン型の水車を動力とする、同様のメカニズムの
「水碾」
http://b2museum.cdstm.cn/ancmach/machine/ja_44.html 
という挽臼がある。

火薬の起源は中国にあるといわれているので、
あるいは、この水碾の技術も西欧に伝播したのかもしれない

つまり、 先の2つの石は、その形状からみて、小麦などの顆粒状のものを粉に挽くための臼の部材で、2個一組で使われていたものと思われる。

  なお、挽臼といっても、従来から我が国の水車場で使われ、小麦や蕎麦を挽いていたものは、一般的な石臼の上部を水車の動力で水平方向に回転させるタイプであるが、こちらは、こちらは西洋式の2つ1組の円盤を円を描くように旋回させて、下に置かれた盤の上にある原料を押しつぶしながら挽くタイプのもの、ということになる。

■一方…

 朝倉水車の臼は
「水車台帳」*によれば
31 朝倉徳次郎 水車 〔南豊島郡〕
所有主住所 南豊島郡下(ママ)渋谷村七四九番地
水車所在地 南豊島郡中渋谷村字猿楽塚(七四九番地)
水 車 場 竪九間×横四間三尺
  〔規模〕 水輪径二丈
       堰高一尺八寸
  〔業種〕 精米業(営業用)擣
        (三斗張以上)三九台
        (三斗張未満)一台
  〔引用〕 玉川上水三田用水大崎(ママ)分水路
  〔沿革〕 明治七年(一八七四月(新設)許可
        明治二一年(一八八八)三月継年期

*鈴木秀行外「近代東京の水車―明治・大正期における多摩川流域の水車分布- 」とうきゅう環境財団/1992・刊<http://www.tokyuenv.or.jp/wp/wp-content/uploads/2011/04/65ce837a62533de5c3be5e104f15b68f.pdf>
 
とあるように、杵を、水車の力で持ち上げて、それを落して、玄米の表面の糠を剥がして白米にするための臼なので 機能も、メカニズムも全く異なる。

結局、この石は、「(朝倉)虎治郎は面白い石が手にはいると庭においていた」(鈴木報告書p.19)ので、その「面白い石」の一つだったのであろう。

 
■それでは…
 
この臼石が、もともとは、どこにあったのかが問題になる。
 
旧朝倉家住宅の近隣で、このタイプの臼があったことが判明しているのは、海軍(後に陸軍)火薬製造所(現・艦艇装備研究所等)であり、幸いにして、明治21年に圧磨機(ただし、後掲「小坂」によれば動力は蒸気)を増設したときの図面が、国立公文書館に保存されている。
 海軍火薬製造所の「圧磨器
 
国立公文書館・アジア歴史資料センター・
 レファレンスコード C10124507000
「明治21年12⽉27⽇ 圧磨室建築落成に付御届の件」





左下の図面に記載されている寸法を基に、比例計算で円盤の直径と厚みを求めると…
























 
直径は1440ミリ/厚さは500ミリほどである。

■そこで…

折をみつけて、旧朝倉家住宅の庭の石の寸法を測定*してみた。

*この庭も、その「石造物」も、旧朝倉家住宅と同時に重文指定を受けており、金属製のスケールでは一部である石を傷つける畏れがあるのため、グラスファイバー製の折尺を使用している。

・前庭の石

直径は1110ミリ




厚さは踏面で180ミリ、石材は〔推定〕240ミリ
 ・中庭の石

直径は主庭のものとほぼ同じ
厚さは庭に下りられないので測定できなかった

 と、いずれにしても、明治21年の圧磨機の石とは別物であることがわかった。

■こうなると…

他の可能性を探るほかないのだが、

1 明治14年の火薬製造所開設当時の圧磨機の石の可能性

先の明治21年に導入された圧磨機は、明治10年代初期、同製造所が設置された当時に導入されたそれに増設されたものであり、当初のそれは明治21年設置のものより小型だった可能性がないではない。
もっとも、これらの圧磨機は、もともとドイツ人の技師であるカール・ヤウスが4台設置するものとして設計し、そのうち2台が明治14年に設置され、同21年にさらに2台追加設置されたもののようなので*、明治14年設置のものも上記の明治21年のそれと同一の仕様のものである可能性が高い。

*小坂克信「日本の近代化を支えた多摩川の水」とうきゅう環境財団/2012・刊<www.tokyuenv.or.jp/archives/g_research/日本の近代化を支えた多摩川の水>  p.125

2 近隣の、明治以降に「碾臼」を使用した水車場の可能性

(1)
近隣でこの種の西洋式の挽臼が使われていた可能性のあるもう一つの場所としては、旧原宿村120番地〔現・神宮前3-30にあった「石村竹次郎水車」を挙げることができる。
享保18〔1733〕年に始まるといわれるこの水車は、明治40年、従前の舂米用から、鉛筆の芯に使用する黒鉛を砕く用途に変更され、大正2年まで稼働していたという*

*東京都渋谷区立白根郷土文化館・編「渋谷の水車業史」同区教育委員会/S61 p.36p.87「4

ただし、「水車台帳」では、原宿村120所在の水車は、#745で、M40廃業。石村水車は、#106で、原宿356所在とされている。


 (2)
当地から、やや距離はあるが、やはり碾臼を使用していた水車場が、現・世田谷区太子堂に2箇所あった。

黒鉛用が、「水車台帳」#1087
 世田谷村大字太子堂字下本村26番地、後に烏山用水(川)対岸の同村同大字字下ノ谷285番地1・2
 ただし、TO2年当時は精穀専業

小麦用が、「水車台帳」#1083
 同村同大字字下本村62番地2



と推定されるが、廃業時期その他の詳細は不明である


【追記】

陸軍板橋火薬製造所で使われていた、ベルギー製圧磨機の石を使用した記念碑
こちらの石は、大理石製(出典不詳)
 https://itabashi-kanko.jp/midokoro/historic/s-05.html
で、
径2540ミリ、厚さ350ミリ、有効幅280ミリ*

*小林保男「板橋火薬製造所の一考察」〔板橋区立郷土資料館紀要 Vol.7(1987年度版)〕
 /同区教育委員会・刊〕p.30 〔小坂克信氏よりご提供〕


 【追々記】

海軍目黒火薬製造所では、火薬製造のために搗臼も使われていったらしい。

めぐろ歴史資料館・蔵


圧磨機とどのように使い分けられていたのかは、まだ不明。