2023年7月11日火曜日

「公友会道」の消滅

 ■朝倉虎治郎ら公友会の…

提唱・手配によって明治末期に開鑿された、道玄坂から八幡通りに至るこの道路

赤線が推定:公友会道(別名 朝倉道)

道玄坂近辺では現存しない。

■円山町にある

道玄坂地蔵の2度の遷座*の経過を調べているうち、その経緯が判明した。

*豊澤=道玄坂地藏の初回の遷座先が、この道路沿い。
 戦後の区画整理でこの道路が無くなってしまうことが、2回目の遷座の要因らしい。

この公友会道の…

起源については、以下のように伝えられている。


有田肇朝倉虎治郎翁事績概要」東京朝報社/S10・刊 pp.40-41

   発展初期道路改良の苦心は想像も及ばず

明治四十二年朝倉〔註:虎治郎。後、渋谷町會、東京府會議長〕が町政改革に奮起し公友會を作った時、公友會の議に依って道路改良が第一番に町是に定められた。其の頃澁谷町の財政状態は未だ甚だ幼稚貧弱であって、児童を教育する小學校舎さへも建て兼ねて居た*のである故、道路改良に手を染めるなどは思ひも及ばぬ事であった。そこで公友會では會自身が之を行ふ事とし、委員を設けて調査研究した結果、縦横各三線の幹道を定め、第一號第區線と稱する今道玄坂上より南千臺鉢山を經て八幡通三丁目に達ずる道路を、開係地主を説きて用地工費共に寄附せしめ、設計書までも添へ之を町に寄附して工事を行はしめた。道玄坂上の入口だけは商家を買ひ潰さればならぬので、其の買収及工事費一萬圓だけ町費より支出したるが、其の一萬圓は町の財政上血の出る様な苦しい金であった。
然るに此の道路が出來ると間もなく、ブリ王と稱された貴族院長者議員日高榮三郎が沿道に大邸宅を構へ、一年數千圓の町税を納めた爲め、町は一萬圓の元金を忽に取り戻し、績いて村井貞之助其他の富者が来住し、多額の税金が上り地價も暴騰し、此の一路線の利益は實に莫大なるものであった。若し自動車に便なる此の道路が無かったならば、澁谷町の外廓は貧民窟が先駆をなし、此の方面後年の大發達は恐らくは見ることが出来なかつたであらう。

* 現在の澁谷警察署のあたりにあった、渋谷小学校の維持・運営費は、有志が共同経営していた水車(宮益水車、後には長谷戸〔はせど〕水車)の収益で賄われていた。 


 前掲図のように、ルートに屈曲が多いのは、道路開鑿の趣旨に賛同し、土地や工事費の寄附に応じた地主の所有地をつなぐ形で道路を設けたため、という。

 このころから、澁谷町では、いわば「公共事業費は、将来の町民に払ってもらう」という発想で、開発を進めたいう。*

*「渋谷区」新設のキーパーソン、”米商”朝倉虎治郎とは何者か―― – 國學院大學 (kokugakuin.ac.jp) 

■戦時中に…

道玄坂周辺は、建物(強制)疎開(S19)によって道路沿いの木造建物が取り壊され、さらに、山の手空襲(S20/05/24,25)によって一面の焼野原になったが、

日本地図(株)「東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示」 渋谷区
緑塗が、建物疎開地域
赤塗が、罹災市域


S21に戦災復興院 が策定した「復興都市計画」の一環として、渋谷区上通一帯の区画整理が開始され、その中で、公友会道の1筋東の「冨士横丁」と呼ばれた狭隘な道路*が大幅に拡張される代わりに、公友会道が廃止されたらしいのである。

S22の帝都地形図(黒色)と
S31-34の東京都建設局・刊 1/3000地形図「駒場」(赤色)
の重ね図

*坂下に冨士信仰の扶桑教本部があったことからこの名があるという
 上図(黒色部分)でもわかるように、幅員が公友会道の1/4にも満たないような「路地」だが、道玄坂道向かいの円山町には及ばないが、それなりの花街を構成していて、一時期は、牧野富太郎夫人の寿衛が待合「大むら」を経営していたらしい。

■S21「東京特別都市計画事業土地区画整理区域図」…

見つけた。

S21「東京特別都市計画事業土地区画整理区域図」朝倉道廃道部(赤色)抜粋


赤塗部が、公友会道だが、前掲「重ね図」によれば、昭和31年ころには、工事の過程で消滅していたことがわかる。









2021年7月3日土曜日

版画「角谷製綿工場の眞景」

■古書市に…

西郷橋の辺りにあった、角谷製綿工場の版画が出品されていたので、入手しました。

■先ずは…

やや大サイズの画像

これはサムネイルです











を、別ブログに同じタイトルで掲載しておきました。

 https://mitaditch.blogspot.com/2021/07/blog-post.html


2021年3月2日火曜日

日本イコモス大賞2020 に ヒルサイドテラス が入賞

代官山ステキ総研の岩橋しからのご連絡によると

日本イコモス大賞2020 に

槙文彦氏・朝倉健吾氏が

「リビング・ヘリテージとしてのヒルサイドテラス1960-2019」

が入賞しプレス発表がありました。

ICOMOS Japan の2/10のプレスリリースは下記にあります。
https://www.icomosjapan.org/document/prize2020.1.pdf

とのことです。

2021年2月28日日曜日

自由学園公開講座・朝倉家住宅

 来る、2011年5月に、池袋の自由学園明日香館で、旧朝倉家住宅に関する下記のような講演が行われます。


日本近代住宅史 旧朝倉家住宅

講 師 内田青蔵 建築史家/神奈川大学工学部建築学科教授/エ学博士

日 時 令和3年5月15日 土曜日 13 : 30~15 : 00

受講料 全1回 2,970円

旧朝倉家住宅について学びます。先祖代々渋谷の大地主たった朝倉家。

大正から昭和にかけて東京府/渋谷区の要職を務めた朝倉虎治郎が、

本宅として1919年(大正8年)に建設しました。戦後GHQの接収を

経ているとはにわかに信じがたいほどの美しさと重厚感を備えた和風

建築を、当時の生活様式をふまえ学びます。

※今回は現地ではなく明日館での座学講義です。

とのこと。


問い合わせ先は

自由学園明日館公開講座事務局

03(3971)7326(日・月・祝休み)

URL www.jiyu.jp

〒171-0021東京都豊島区西池袋2-31-3



【追記】21/03/04

内田教授の、これまでの研究成果

https://ci.nii.ac.jp/nrid/1000030277686

2020年5月2日土曜日

朝倉水車の水車堀の図面

■これまでの間…

最初に入手していた、朝倉水車*の図面は、

*「水車台帳」〔鈴木芳行ほか「明治・大正期における多摩川流域の水車分布-水車台帳の作成と水車諸産業の存在形態」1992・所収〕
< https://foundation.tokyu.co.jp/environment/archives/a_research/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E3%83%BB%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%9C%9F%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%B7%9D%E6%B5%81%E5%9F%9F%E3%81%AE%E6%B0%B4%E8%BB%8A%E5%88%86%E5%B8%83%EF%BC%8D%E6%B0%B4 >

 No.31(p.31)

東京都公文書館・蔵
明治21年3月31日付け水車営業継年期願 朝倉徳次郎
 (電磁的記録媒体番号:D316‐RAM/収録先の請求番号:617.A6.03/綴込番号:034)

の添付図面だった。




方位の記号は誤りで、図の右方向が北で上流

この図面で、それまでに読んでいた文献によっては、この朝倉水車が、猿楽分水に架設されているように書かれているものもあったのだが、それは全くの誤りで、この上流部あった西郷山水車同様に、三田用水の(分水路ではなく)本水路から水を分水して水車を回し、その水は三田用水の本水路に戻して〔「帰流」させて〕いたことが判明したのは大きな収穫だった。

2020年4月19日日曜日

旧朝倉家住宅の庭園のポンプ


■旧朝倉家住宅の…

庭園内の北西端近く、目切坂上、水路最下流部に近い場所に、さび付いた電動の井戸ポンプがある。


  註:以下のポンプの写真は、特別に許可を得た場所で撮影しています

ポンプの側面のエンボス文字をみると

表面(ローター側)


MARUHACHI IRON WORKS

NAGOYA JAPAN

 

 

 

 

 
 

裏面
 
 
MARUHACHI

SELF-OILING

POWR PUMP

150 STROKE

 

 

 

 

 

 

 


で 


 井筒(奥の地表近く)


井筒とポンプとの位置関係は
後記【参考資料】参照



から、ポンプで吸い上げた水を



圧力タンク
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 

に送り込み、タンク内の圧力が一定以上になると



タンク上部のスイッチ
 

  
  
 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



が作動して、



ポンプの最上部のモーター





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 への電力を切る、という、形状はやや違っているが、現在の井戸ポンプと同じ仕組みで動作している。



■朝倉家住宅に…


 当初電動と思われるポンプが導入されたのは「本宅新築支払控」



 
 
 
 
 
 
 
 
 

によれば

大正9年11月(「井戸屋」への支払いは同年5月)



国産の電動井戸ポンプが製造されたのは、大正7年の日立製作所によるものが初とされている(小泉和子「昭和台所なつかし図鑑」平凡社/1998・刊 P.20)ので、この点からも現在遺っているポンプが大正9年に設置された可能性は低い。

■加えて…


「株式会社丸八ポンプ製作所」なる会社
http://www.malhaty.com/

は現存していて、同社のカタログ掲載の、深井戸用ポンプ
 
昭和9年のカタログ

 
 
戦後昭和20年代のカタログ
 

 
 


























 









、形状(後記の参考資料からみても、当初は既存の先行品のコピーだろう)ばかりではなく、筐体のMPCとの文字が一致しているので、ここが、この庭のポンプの製造会社と思われる。

■とはいえ…


その社史
http://www.malhaty.com/company/history.html

によれば、同社は大正12年に名古屋で創立され(当初は手押しポンプを製造する会社だったとのことである。)、昭和12年に本社を東京に移転しているとのことなので、現在の庭のポンプが大正9年に設置されたことはあり得ない。

そこで、仮に電動ポンプの耐用年数を10数年と考え、現在のポンプは、同社の本社移転前の昭和10年代初めころまでに交換されたと考えると、エンボス文字の「NAGOYA」と整合することになる。*1

しかし、その当時は、すでに渋谷町営水道は開通していたし*2、とりわけ朝倉虎治郎は同町々議で、しかも水道の敷設委員であり、率先して積極的に水道を利用しなければならない立場だったので、少なくとも、この時点で井戸水を旧朝倉家住宅の台所などで使う生活用水として利用する意図があったとは考えにくい

■どうやら…

この昭和10年前後という時期は、旧山手通りのための道路の拡幅工事と並行して、三田用水路のヒューム管による暗渠化工事の始まった時期でもあり、その工事によって、用水の朝倉家住宅への供給が止まる*3ことに対応するため、それに代わる庭水の調達を目的としたものではないかと想像される。

朝倉虎治郎の孫にあたる、故・朝倉徳道氏の記憶では、昭和10年代には、現在のヒルサイドテラスC棟裏手にある「猿楽小塚」の周囲に2つの池があったとのことであり、ポンプからの水の行く先としては、さしあたって、これらの池以外には考えにくい。

池のうち一つでは鯉を飼っていたらしいが、もう一つは、庭の「渓流」用の水源だったのだろう。
 




*1 MARUHACHI IRON WORKS 」を素直に日本語に戻すと「丸八鉄工所」となるが、

名古屋工場要覧: 昭和12年版


P.91によると、当時名古屋にあった「丸八鉄工所」は、「自転車用パイプ類」の製造業だった一方、P.55の「丸八ポンプ製造所」については、主要製品として、家庭用電動ポンプが冒頭にリストアップされている。
 
*2 渋谷町水道は、公式な竣工は大正13年3月とされているが、大正12年9月の震災当時、現在の旧山手通の前身の道路沿いに18インチの「本管」に通水されていたことが、震災記録で確認できる。

岡村又市・編「関東大地震(大正十二年)震害調査報告 第2巻」土木学会/S02・刊 p.28
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268668/25
 



澁谷町臨時水道部「施工中に在る澁谷町水道」同/T11・刊 より
中央が朝倉虎治郎


*3 環状6号道路(現・旧山手通り)の設計図〔部分〕(東京都公文書館・蔵)

朝倉家住宅のための分水口は描かれていない。






























【参考資料】

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1029080/12

西原脩三「衛生装置ヲ設クル方ヘ : 住宅衛生工事解説」(パイロツト衛生叢書 ; 1輯)西原衛生工業所/S05・刊

の「深井戸用ポンプ」の仕組みの解説