2020年5月2日土曜日

朝倉水車の水車堀の図面

■これまでの間…

最初に入手していた、朝倉水車*の図面は、

*「水車台帳」〔鈴木芳行ほか「明治・大正期における多摩川流域の水車分布-水車台帳の作成と水車諸産業の存在形態」1992・所収〕
< https://foundation.tokyu.co.jp/environment/archives/a_research/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E3%83%BB%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%9C%9F%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%B7%9D%E6%B5%81%E5%9F%9F%E3%81%AE%E6%B0%B4%E8%BB%8A%E5%88%86%E5%B8%83%EF%BC%8D%E6%B0%B4 >

 No.31(p.31)

東京都公文書館・蔵
明治21年3月31日付け水車営業継年期願 朝倉徳次郎
 (電磁的記録媒体番号:D316‐RAM/収録先の請求番号:617.A6.03/綴込番号:034)

の添付図面だった。




方位の記号は誤りで、図の右方向が北で上流

この図面で、それまでに読んでいた文献によっては、この朝倉水車が、猿楽分水に架設されているように書かれているものもあったのだが、それは全くの誤りで、この上流部あった西郷山水車同様に、三田用水の(分水路ではなく)本水路から水を分水して水車を回し、その水は三田用水の本水路に戻して〔「帰流」させて〕いたことが判明したのは大きな収穫だった。

【参照】
M13測M30 修測 1/20000迅速測図「内藤新宿」抜粋
西郷山水車の水路が、一旦三田用水路から左岸側に分水・帰流している状況が描かれている。


















■のっとも…

この図は、あくまで、見ての通りの「概念図」なので、水車用の水が、どのポイントで三田用水路から分水され、どこで再び三田用水路に帰流させているのかはわからない。

それを何とかできないものか、と思ってネット・オークションで入手したのが、

澁谷町役場・編「東京府豊多摩郡澁谷町平面図」澁谷朝報社/T10〔4版〕T07 〔初版〕・刊

で、



同図によれば

・三田用水路から朝倉精米所の水車に向かって分水される位置
・同水車を回した水を、元の三田用水路に帰流していた位置
さらには
・当地にあった猿楽分口の位置や
・旧朝倉家住宅の庭園のための分水口の位置
を、ある程度までは確認することができた。

 
■とはいえ…
 
小坂克信「北多摩の製粉・精白水車」(たましん地域文化財団「多摩のあゆみ」Vol.115/pp.22-37
https://adeac.jp/tamashin/viewer/mp011500-100010/tamanoayumi115/?p=25

の、p.23によると、水車を回す水量は多ければ多いほどよいというわけではなく
水量が多いと水車が早く回転し、杵が落ちないうちになで棒が持ち上がり、部材(なで棒や羽子板)を傷める」ため、「水量調整は水車を動かす上で大切な仕事だった
とされている。


「目黒区史」p.561掲載の、目黒川大山街道の大坂下にあった加藤水車
水車場の直上に余水を目黒川に帰流させるための、水路と堰がある


この水量調整は、本水路から水車堀に分水する場所の堰で調整することも理屈の上では可能だが、この朝倉水車も含めて、分水場所と水車の距離が離れていると、臨機応変な水量調整が難しいので、一定規模以上の水車場では、水車の直上の水車堀に、必要以上の「余り水」を本水路に帰流させるための堰と水路を備えていると思われたのだが、その点を明らかにする資料がなかなか見つからなかった。

■ところが…

たまたま、

関東大地震(大正十二年)震害調査報告. 第2巻

で、震災当時、完成に向けて施工中だった澁谷町營水道の被災状況を調べていたところ、その144コマ目
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268668/147

に同水道の配水地域を示す図面があった。



144-147の「澁谷町水道 鉄管敷設平面図」から抜粋


この図によれば、三田用水路の西側に並行する水車堀から用水路を結ぶ余水路が描かれているので、朝倉水車も、上記の加藤水車などと同様の、いわば「標準的」な水路を備えていたことが確認できたのである。

上側の水路が三田用水の本流
赤線が水堰、青四角が水車のある建屋を示す

【参考】
2019年秋に代官山ヒルサイドテラスの50周年記念の催しの折、代官山一帯のジオラマが、製作・展示された

その全景


















当方もその資料の収集・提供という形でお手伝いさせていただいたが、完成したジオラマを見て、一番感慨深かったのが、このページの朝倉水車だった。

その「遠景」
現在のデンマーク大使館の場所にあった














その「近景」
水輪は、もう少し建物の内側にあるはずだが、それを忠実に再現してしまうと
水車場には見えなくなってしまうので、これはまぁ止むを得ない。




























【参考】
モースコレクション中の水車の写真(「モースの見た日本」小学館/1988・刊 p.183)

彩色写真だが、細部まで観察しやすいようモノクロに「戻した」。

手前から、本水路(水源の自然河川か用水路)
その左に、余水路
その奥の、竹やぶの手前に、水車用水路(水車堀)
が共に写り込んでいる、貴重な写真である。

左右の勝手は逆だが、この風景は、かつて世田谷の北沢用水にあった「寺前水車」*を連想させる。




0 件のコメント:

コメントを投稿