重要文化財に指定されてた際その「附」〔つけたり〕として、その棟札が指定されている。
虎治郎氏の、実弟かつ義弟の八郎氏が筆書したもので、箱に入れられ、棟木に打ち付けられていたという。
最上部に、普請の安全と成功を祈願するカミ5柱の名前が書かれているが、この種の棟札としては、ごく一般的といわれているカミの名であり、特段の特徴はない。
一方、最下部に、各職方の親方クラスが並び
中央の
棟梁 秋 元 政太郎【大政】〔だいまさ〕
から右に
と並ぶのは、ほぼ定石のようだが(但し、重要な職方である左官が欠落している)、一番右端に
① 明治中期以降はすでに機械製材が普及し、大正時代中期には東京では、機械挽きや材木商に所属していた木挽きの挽いた各種の種類・寸法の木材が「出来合」で入手可能だったと思われること
③ そのため「オーダーメイド」の材木が必要でも、材木商に「特注」すれば、店所属の木挽きによる手挽きの材木が入手可能だったはずであること
しかし、このような環境下で、あえて木挽きを起用するのには、確固とした「目的」と、それなりの「成算」があったからに違いない。
それは、朝倉虎治郎氏が、青年期の職業経験(+縁戚経験)を通じて「木挽きのチカラ」を目の当たりにしていたからではなかろうか?
■おそらく…
【資料編】
我が家の書棚から、四半世紀以上眠っていた本を発掘しました。
わが国大工の工作技術に関する研究
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN00522613
著者:黒 川 一 夫
監修:村 松 貞次郎
発行:財団法人労働科学研究所
書籍の出版は、昭和59年ですが、ガリ版刷り、生写真張り付けの原著の出版は昭和24年。
戦時中の調査・研究に基づくもののようです。
同書のpp.109-112に木挽きについての言及があった。
原著者は、昭和20年代半ばに亡くなっていることから、著作権は消滅していると思われるので、転載することにする。
鋸挽きは大きな材になると大工では手に負えなくなって-る。すなわち周知の如く木挽職の技術にまたなければならない。現在では製材機が普及されているので木挽は非常にすくなくなってはいるが、それでもこの原始的な技術と労働は僻地において、今なおその存在をみるのである。
木挽の労働はきわめて重労働である。昔から「木挽一升飯」とか、木挽のことを一名「大鋸」などと、言ったものである。ある文献によると、アメリカでも木挽作業は一日六千カロリーを摂取するとある。もって、いかに重筋肉労働であるかが理解されるであろう。
したがってこの木挽の労働量の評価は、その賃金算定にもいきおい明瞭に表れてくるのである。すなわち幅一尺の材を標準として単価を決定し、それ以上は幅の増加によって「分」増しとなるのである。その割合はどうであるかと言うと、幅二尺になると、一尺につき五割増、三尺では一尺につき十割増、六尺になると一尺につき二十割増しの三倍となる。これを昔の賃金で言えば、一尺の場合が五十銭、二尺のときが尺当り七十五銭として、壱円五十銭、三尺のときは尺当り一円となって三円、六尺になると尺当り壱円五十銭で九円となるわけである。
その上昇率はまさに等比級数に近いものがある。もって材の幅が加わることによって、如何にその労働量に影響を及ぼすかを理解することができるであろう。
木挽職の仕事はこのように大きな労力の負担をともなうものであるために、一方においては彼等は出来るだけ道具にも力学的抵抗がかからないように苦心を施して仕事をやるのである。すなわち鋸の目立のしかたも大工の鋸のそれとは異っていて、図に示すごと-、やすりで「ちょんかけ」と俗に呼ばれる仕掛をこしらえるのである。これによって出来るだけ引っかかりがよく、軽く出せるようにするわけである。
しかしながらこのへんのところ、如何せん手工的技術のみじめざを暴露せざるを得ないものがある。
ところが同じく木材を切断するとしても、それが機械化され動力に依存する製材機となると、歯も上述の如き小細工の必要がなくなってくる。つまり機械鋸の歯形は、その巨大なる動力によってしゃにむに動かされるために「ちょんかけ」など無く、堂々たる両も鋭利なる形をとっているのである。
わたくしは、この木挽鋸の形をみるにつけ、そこに人間が人力そのものを以て大自然にせまっていった或る限界を見せつけられるような気持がするのである。
ところで前述の賃金の分増しの算定は、単にそれが労働量のみ昆倒したものであるというみかたは、少しく苛酷なる評価のしかたであって、そこには当然技能的な要素も加味されなければならないのである。と言うのは・木挽職の仕事はいかにも単純なものには違いないのであるが、その技能の習得とても決して生やさしいものではない。
木挽が幅物を挽くときには、まずその姿勢からして、特に整っていなければならない。姿勢が正しく決っていないと、長い時間の間には必ずくせが出てきて、ゆがみが出てくる。「木挽の両足の足跡は一日中変らない-(但し足はときどき前後にかえるが)」とは彼等が如何に姿勢をくずきないものであるかを語るものであろう。身体の重心のとり方が、つねに一定していなければならないわけである。(またそのような事情も手伝って幅物を挽くとき両方から挽くのである。つまり、かけ声をかけながら、お互いゆがまないように注意し合うのである。
木晩の仕事は姿勢ばかりでなく、鋸の歯ならびに重要なる鍵がある。つまり、「木挽の鋸の歯には三本むらがあったら、挽跡はどんどん曲ってくる。」と言われたものである。木挽の鋸は大工のものと異って歯の数がきわめてすくないからである。
写真は同じくのこぎり作業の姿勢の側面である。使用されているのこぎりは一尺五寸の鼻丸である。
「ががり」**を使うときの姿勢
ががりの使い方はのこぎりのやり方とは逆に尻手上りに挽-ことと、なるべくねかきないようにして挽くことが必要である。(材に対する鋸の角度は四五度位のものであろう。)
またそのために鋸の形の方でもそのように作られてある。すなわち既に述べた如く、鏡板の背はほんのりとそって;いかにも軽-出るように見せかけてあるし、柄もほんのりとそって、尻手上りにできているのである。
ががりはのこぎりを使うときよりも長時間続けてやる場合は労働的には楽である。一日の作業量は木挽の場合、幅一尺物を挽き割るとして、延三十尺位のものであろう。写真㈲は同じくががり作業の姿勢の側面である
* 同書が書かれた、戦中、戦後期でも、木挽きはかなり優遇されていたらしい
** 大工が使用する縦挽き鋸
から右に
鳶頭 齊 藤 淙次郎【鳶淙】
石工 高 田 留 吉【石留】と並ぶのは、ほぼ定石のようだが(但し、重要な職方である左官が欠落している)、一番右端に
木挽 伊 藤 勝次郎
とあるのに注目された。
■木挽き、とは…
杣(樵)が立木を伐った原木やそれに準ずる木材を、
杣(樵)が立木を伐った原木やそれに準ずる木材を、
その木材を、大鋸〔おが:一言でいえば「巨大な縦挽き鋸」、もともとは2人挽きのものを指し、1人挽きのものは「前挽き」という〕で挽いて、
大工の使う材木
を仕立てる職方である。
*林氏は、世田谷区の次太夫掘(六郷用水〔現・丸子川〕の別名)民家園の長屋門の修復工事のための床板の挽き立ての依頼を受けていたが、その機会に、木挽き作業のデモンストレーションが公開された。
これが経緯となって、同園ではボランティアによる木挽きの会が結成され、現在も活動中。
これが経緯となって、同園ではボランティアによる木挽きの会が結成され、現在も活動中。
■大正中期の…
しかも東京で、木挽きがこのような普請の職方の一人として関与するのは、以下の理由から、珍らしいと思われる。
① 明治中期以降はすでに機械製材が普及し、大正時代中期には東京では、機械挽きや材木商に所属していた木挽きの挽いた各種の種類・寸法の木材が「出来合」で入手可能だったと思われること
② 明治初期までは、木挽きは大工、左官、鳶職などと同様各町内にいたが、明治後半以降、木挽きは材木(仲買)商に所属するようになっていたこと
しかし、このような環境下で、あえて木挽きを起用するのには、確固とした「目的」と、それなりの「成算」があったからに違いない。
それは、朝倉虎治郎氏が、青年期の職業経験(+縁戚経験)を通じて「木挽きのチカラ」を目の当たりにしていたからではなかろうか?
■おそらく…
【資料編】
我が家の書棚から、四半世紀以上眠っていた本を発掘しました。
わが国大工の工作技術に関する研究
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN00522613
著者:黒 川 一 夫
監修:村 松 貞次郎
発行:財団法人労働科学研究所
書籍の出版は、昭和59年ですが、ガリ版刷り、生写真張り付けの原著の出版は昭和24年。
戦時中の調査・研究に基づくもののようです。
同書のpp.109-112に木挽きについての言及があった。
原著者は、昭和20年代半ばに亡くなっていることから、著作権は消滅していると思われるので、転載することにする。
鋸挽きは大きな材になると大工では手に負えなくなって-る。すなわち周知の如く木挽職の技術にまたなければならない。現在では製材機が普及されているので木挽は非常にすくなくなってはいるが、それでもこの原始的な技術と労働は僻地において、今なおその存在をみるのである。
木挽の労働はきわめて重労働である。昔から「木挽一升飯」とか、木挽のことを一名「大鋸」などと、言ったものである。ある文献によると、アメリカでも木挽作業は一日六千カロリーを摂取するとある。もって、いかに重筋肉労働であるかが理解されるであろう。
したがってこの木挽の労働量の評価は、その賃金算定にもいきおい明瞭に表れてくるのである。すなわち幅一尺の材を標準として単価を決定し、それ以上は幅の増加によって「分」増しとなるのである。その割合はどうであるかと言うと、幅二尺になると、一尺につき五割増、三尺では一尺につき十割増、六尺になると一尺につき二十割増しの三倍となる。これを昔の賃金で言えば、一尺の場合が五十銭、二尺のときが尺当り七十五銭として、壱円五十銭、三尺のときは尺当り一円となって三円、六尺になると尺当り壱円五十銭で九円となるわけである。
その上昇率はまさに等比級数に近いものがある。もって材の幅が加わることによって、如何にその労働量に影響を及ぼすかを理解することができるであろう。
木挽職の仕事はこのように大きな労力の負担をともなうものであるために、一方においては彼等は出来るだけ道具にも力学的抵抗がかからないように苦心を施して仕事をやるのである。すなわち鋸の目立のしかたも大工の鋸のそれとは異っていて、図に示すごと-、やすりで「ちょんかけ」と俗に呼ばれる仕掛をこしらえるのである。これによって出来るだけ引っかかりがよく、軽く出せるようにするわけである。
しかしながらこのへんのところ、如何せん手工的技術のみじめざを暴露せざるを得ないものがある。
ところが同じく木材を切断するとしても、それが機械化され動力に依存する製材機となると、歯も上述の如き小細工の必要がなくなってくる。つまり機械鋸の歯形は、その巨大なる動力によってしゃにむに動かされるために「ちょんかけ」など無く、堂々たる両も鋭利なる形をとっているのである。
わたくしは、この木挽鋸の形をみるにつけ、そこに人間が人力そのものを以て大自然にせまっていった或る限界を見せつけられるような気持がするのである。
ところで前述の賃金の分増しの算定は、単にそれが労働量のみ昆倒したものであるというみかたは、少しく苛酷なる評価のしかたであって、そこには当然技能的な要素も加味されなければならないのである。と言うのは・木挽職の仕事はいかにも単純なものには違いないのであるが、その技能の習得とても決して生やさしいものではない。
木挽が幅物を挽くときには、まずその姿勢からして、特に整っていなければならない。姿勢が正しく決っていないと、長い時間の間には必ずくせが出てきて、ゆがみが出てくる。「木挽の両足の足跡は一日中変らない-(但し足はときどき前後にかえるが)」とは彼等が如何に姿勢をくずきないものであるかを語るものであろう。身体の重心のとり方が、つねに一定していなければならないわけである。(またそのような事情も手伝って幅物を挽くとき両方から挽くのである。つまり、かけ声をかけながら、お互いゆがまないように注意し合うのである。
木晩の仕事は姿勢ばかりでなく、鋸の歯ならびに重要なる鍵がある。つまり、「木挽の鋸の歯には三本むらがあったら、挽跡はどんどん曲ってくる。」と言われたものである。木挽の鋸は大工のものと異って歯の数がきわめてすくないからである。
写真は同じくのこぎり作業の姿勢の側面である。使用されているのこぎりは一尺五寸の鼻丸である。
「ががり」**を使うときの姿勢
ががりの使い方はのこぎりのやり方とは逆に尻手上りに挽-ことと、なるべくねかきないようにして挽くことが必要である。(材に対する鋸の角度は四五度位のものであろう。)
またそのために鋸の形の方でもそのように作られてある。すなわち既に述べた如く、鏡板の背はほんのりとそって;いかにも軽-出るように見せかけてあるし、柄もほんのりとそって、尻手上りにできているのである。
ががりはのこぎりを使うときよりも長時間続けてやる場合は労働的には楽である。一日の作業量は木挽の場合、幅一尺物を挽き割るとして、延三十尺位のものであろう。写真㈲は同じくががり作業の姿勢の側面である
* 同書が書かれた、戦中、戦後期でも、木挽きはかなり優遇されていたらしい
** 大工が使用する縦挽き鋸
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