2018年12月17日月曜日

三田用水坂(本)口分水をめぐる裁判の判決

■何かの拍子に…

偶然見つかった判決文は以下のとおり(【】内の数字は後補)。


行裁判明29・06・19行裁録16・117
三田用水内堀普通水利組合會不法決議取消ノ訴
原告 【0】目黒村上目黒927番地 吉永郡蔵
被告 同内堀会管理者 鏑木一郎

判決要旨
 右原告吉永郡蔵ヨリ被告村長鏑木一郎ニ対スル三田用水内堀普通水利組合不法決議取消ノ訴原彼告雙方ノ弁論ヲ聴キ審理ヲ遂タル處
 原告訴求ノ要旨ハ東京府荏原郡目黒村【01】三田用用水ノ分水字別所坂本分水路ハ澁谷村字鎗ケ崎第千百七十番地ヲ貫通シ馬引澤道路ニ沿ヒ目黒村田用水トナレリ【02-1】此宅地ハ朝倉倉藏ノ所有地ニシテ去明治二十二年七月十三日同人ト大庭宗兵衛トノ間ニ地所貸借ノ契約ヲ締結シ後【02-2】十六年七月中原告ハ朝倉倉藏【02-3】ヨリ右地所ヲ受ケ叉公爵岩倉具定ハ上目黒第六十七番地ヲ元持主大庭宗兵衛ヨリ買受ケタリ然ルニ【03-1】二十六年九月中目黒村淺見貞二耶外一名ニ於デ擅ニ右【03-1】原告宅地内ニアル水路敷ヲ發掘シ巨大ノ竪樋ヲ設ケ水路ノ兩側ヲ廣ケ石ヲ畳ミ横樋ヲ伏セ込ミ蓋ヲ掩セ低地ヨリ高地ニ流通スル如ク改築シタル爲原告ハ家用水ノ便觀望ノ美即水ノ使用権ヲ失ヒ且樋ロヨリ溢流スルヲ以テ二十七年一月中原告ヨリ淺見貞二郎外一名及岩倉公爵ニ係リ東京地方裁判所ニ水路敷原形回復ノ訴ヲ提起シタリ然ルニ淺見貞二郎外一名ハ右所爲ヲ不道理ト考へタルカ同裁判所ノ第一口頭辯論期日ヲ變更シ三田用水内堀普通水利組合會ニ甲第三號證ノ如キ議案ヲ提出シ甲第一號證ノ決議ヲ變シタリ是畢竟淺見等カ甲第四號證ノ判決ノ執行ヲ免レントスルノ手段ニ外ユラス而シテ淺見等ハ甲第四號證ノ判決ニ對シ東京控訴院ニ控訴シタル處乙第一號證ノ判決ヲ與タルニ付原告ハ大審院ニ上告シタルニ同院ニテハ原判決ハ不法ナリトシテ差戻サレタル後未タ判決ニ接セス叉原告ハ同組合會ノ決議ヲ違法トシテ荏原郡長ニ訴願シタル處其目的ヲ達セサルニ付進ンテ東京府知事ニ訴願シタルニ同知事ハ本件ハ民事裁判ヲ經タルモノナリトノ理由ヲ以テ却下セラレタリ依テ分水ロノ變更ヲ執行シタル村長ヲ相手取リ本訴ヲ提起スルノ已ムヲ得サルニ至リタリ元來民事訴訟ノ目的ト本件訴訟ノ目的トハ別異ノモノナルニ東京府知事ニ於テ之ヲ混同シタル裁決ヲナシタルハ不法ナリ叉組合會ノ決議ハ不法ナり何トナレハ新工事ハ岩倉家ノ瀧水トナス爲淺見等カ一己ノ竟見ヲ以テ施設シタルモノナタルニ組合會ニテハ事後承諾ヲ與ヘタルモ事後承諾ハ特別ノ規定アルニ非サレハ爲シ得ヘキモノニアラサルノミナラス瀧水トナス爲ニ施設スルモ工事ノ如キハ田用水其他必要ノ工事ニアラサレハ組合ト雖之ヲ議決ヌルノ權能ナケレハナリ叉【04-1】舊水路ハ深四尺乃至五尺幅三尺乃至四尺アルヲ以テ道路ニ流溢スルノ虞ナク【04-2】數百年來變更シタルコトナカリシ新水路ハ幅八九寸深一尺位ナルヲ以テ流水ノ汎溢スルノミナラス道路ノ幅ヲ減縮シ原告ノ用水權ヲ侵害シタリ且舊分水口ノ位置ハ流水力道路ノ側面ニ激スルノ虞ナキモノナレハ郡參事會ノ裁決ハ架空ニ斷定シタルモノナリ故ニ明治二十七年二月十三日三田用水内堀普通水利組合會ノ決議ヲ取消シ別所坂本口分水原形ニ回復スルヤウ判決アランコトヲ乞フト云フニ在リ
 被告答辯ノ要旨ハ東京府荏原郡目黒村三田用水分水口下流ハ原告所有宅地ノ間ヲ貫通シ馬引澤道路ノ側面ニ沿ヒ目黒村田塲用水ニ供シ來リタルモノナリ然ルニ【05-1】目切坂道路開鑿トナルトキハ右用水ハ新道ノ側面ヲ激スルノ虞アリ從テ道路ノ破壊ヲ來スコト尠少ナリトセス是ニ於テカ明治二十七年三月十三日三田用水内堀普通水路組合會ニ於テ【05-2】右分水口ヲ四五間上手へ附替變更スルコトヲ三田用水普通水利組合會へ提出スル事ヲ議決シ其後普通水利組合會ノ議決ヲ經東京府廳ノ許可ヲ受ケ現在ノ分水ロヲ取付クルコトヽナリタルモノナリ原告ハ二十七年二月十三日ノ内堀會ハ淺見等カ民事訴訟ノ執行ヲ免レシメントシテ故ヲニ二十六年八月二十三日ノ決議ヲ變更シタルカ如ク申述スルモ二十六年八月二十三日ノ内堀會ヲ議事録ニ依ルモ明カナルカ如ク右決議ハ單ニ流水引入ノ件即従前ノ振合ヲ以テ流水ヲ岩倉家へ貸渡スコトヲ議央シタルモノニシテ二十七年二月十三日ノ内堀會ハ工事ノ事後承諾竝分水口附替ヲ議決シタルモノナレハ毫モ前決議ヲ變更シタルノ點ナキノミナラス二十六年八月二十三日ノ議事録ニヨレハ當村字目切坂道路開鑿ニ付テハ字板本口内堀分水工事中變更等有之模様ニ付假令何ヘ工事中變更相成候テモ異議無之哉本會ニ於テ決議シ置キ度云々トアリテニ十七年二月ニ至リ分水口附替ヲ議スルニ至リタルハ甲第三號證乙第二號證ノ如ク右道路ノ開鑿ヨリ生シタル必要ノエ事タルノ事實ヲ見ルニ足ル叉分水口附替ニ付内堀會ハ普通水利組合會ニ提議シ後者之ヲ議決シタルモノナレハ原告ハ宜シク分水口ニ關シテハ該組合會ノ管理者タル郡長ヲ相手取リ道路ニ關シテハ知事ヲ相手取ルヘク村長ヲ相手取ルヘキモノ二アラス叉坂本分水路ハ田塲灌漑ノ爲設ケタルモノナレハ田持ニアラサル原告ハ之カ使用ノ權利ナク觀望ノ美ノ如キハ恩恵タルニ過キサルナリ故ニ原告ノ請求ヲ排斥セラレタシト云フニ在リ

■判決の内容は…

ごくごく当たり前の理屈なので、当否を論ずる価値はないのですが、三田用水関係の資料としては「目の付け所満点」なのです。


*なお、http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/MitaBunsui18.htm 参照

2018年12月16日日曜日

代官山ヒルサイド 近世の図絵など


〔国会図書館〕
村尾幸陵「江戸近郊道しるべ」13巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577954/8
















猿楽塚の上から目切坂方向を俯瞰していると思われる図


http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577954/9





















上の場所から遠望した図

〔中央区立京橋図書館〕

歌川広重「繪本江戸土産 目黒元不二下道」
https://www.library.city.chuo.tokyo.jp/bookdetail?18&retresult=page%3DDETAIL%26area%3D2%26comp1%3D3%26comp6%3D1%26cond%3D1%26item1%3DGH%26item6%3DAB%26key1%3D%25E7%259B%25AE%25E9%25BB%2592%26key6%3D%25E6%25B1%259F%25E6%2588%25B8%25E5%259C%259F%25E7%2594%25A3%26mv%3D20%26sort%3D1%26target1%3D1%26&num=1989596&ctg=1&area=2&areaimage=1

 交番と地蔵堂の間にあった馬引沢道を下りきって、目黒川に出たあたりから代官山方向を見上げたと思われる。

2018年12月15日土曜日

明治44年ころの通称郵便地図

精確には
番地界入り 豊多摩郡渋谷町        明治44年(1911)



全図はこちら
https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home51files/Shibuya-Toyo_CHOSON/Shibuya-Toyo_CHOSON_kmview-zoom.html

番地界入り 荏原郡目黒村        明治44年(1911)


各・逓信協会・刊で

凡例によると
薄緑色 林地
薄黄色 農地
白 色 宅地
である。

郵便配達時の便宜のために作成された地図のようなので、かなり精確性
が高いと思われるが、これによると

現渋谷区側 朝倉米店と猿楽塚のみが宅地 あとは山林
        現Tサイトも、北端の742、743だけは宅地、その他は農地

現目黒区側 旧徳次郎氏宅+同隠居所+旧朝倉家住宅主屋部分が宅地 あとは農地

ということになる。

なお、両者の合成図



完全にはつながらないので、境界に空白を入れてある。

2018年12月14日金曜日

三田用水基本資料


2016年 9月21日

三田用水の概要
 
 
                    木 村   孝 baumdorf@nifty.com
                      http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita01.htm
 


三田用(上)水沿革  参照:三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同/S59・刊
165860         万治年間 細川上水開削
1664                寛文4     三田上水開削
                        (取水圦は、細川上水の3町上流)
1689                元禄2     同追加普請
1698                元禄11   白金御殿のため白金村で分水
1702                元禄15   白金御殿焼失・同分水廃止
1719                享保4     下澁谷道場池・田子免池に分水
1722                享保7     細川・三田両上水廃止
1724                享保9     三田用水普請
1880                 明治13   目黒火薬庫用水通水
                     (取水圦は、約16m上流)
1890                 明治23  水利組合条例制定
                                       →三田用水普通水利組合設立
1902                 明治33              水路幅拡張

 1908                 明治41   水利組合法制定→公法人化

1923                 大正12   震災で取水圦崩壊
1927                 昭和2     新取水圦完成(火薬庫と共用)
1935                 昭和10   取水口→大日本麦酒暗渠化完成
1940                 昭和15   大日本麦酒下流暗渠化完成
1949                 昭和24   土地改良法施行
1952                 昭和27   三田用水普通水利組合法定解散
                                          ←土地改良法施行法§9→§3
                                          「三田用水事件」訴提起
1961                 昭和36   「三田用水事件」第1審判決
1967                 昭和42   「三田用水事件」控訴審判決
1969                 昭和44   「三田用水事件」判決確定
1975                 昭和49   通水停止
1985                 昭和59   三田用水普通水利組合清算結了

 
三田用水に関する主な先行研究と資料

・三田用水の分水とその変化・消滅〔主に渋谷区〕

  田原研究(白根記念渋谷区郷土博物館学芸員)
   田原光泰「春の小川はなぜ消えたか」之潮/H23
   〔特別展図録〕「『春の小川』の流れた街・渋谷」
            白根記念渋谷区郷土博物館・文学館/H20
   「  唱歌“春の小川”生誕100周年記念特別対談『田原光泰×加瀬竜哉』」
       http://www.kasetatsuya.com/norivernolife/noriver_nolife_taidan.html
            (故・加瀬竜哉氏WEB

・三田用水(と千川上水)の日本の近代化への貢献

  小坂研究(小学校教諭・産業考古学会理事)

小坂克信「武蔵野台地南部の水利用・水配分に関する教材化のための基礎研究」/H18
<http://www.tokyuenv.or.jp/wp/wp-content/uploads/2011/02/9c1ea8c41a7a71a6b52f6b2d93fbe88e1.pdf >
   同   「日本の近代化を支えた多摩川の水」/H22
<http://www.tokyuenv.or.jp/wp/wp-content/uploads/2011/12/d5dee0a2422f6d5ba003d7be3dad345a.pdf>
     【参考】「みたか水車博物館 働く水車が伝える水のポテンシャル」
       http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no28/03.html

・三田用水の文化的景観の変遷と再生

牧 研究(慶応義塾大学大学院 政策・メディア研究科修士課程修了・横浜市職員)
   「旧三田用水が形成した文化的景観の歴史的変遷と再生に関する研究」
NPO代官山ステキ綜合研究所 第6回フォーラム代官山 資料/H22
「東商・代官山スタイル研究会の報告と旧三田用水に関する研究論文の発表」pp.10
                             (牧寛氏発表)
同上 記録 < http://www.daikanyama.ne.jp/dsi/report/ >【更新中?】

 肩書は、いずれも発表/公表時



上水/用水の基礎的事項

 上水と用水

  基本的に
   上水=主として街場の呑水
原則として、農業用水には使えない。ただし、余水などの使用が許されることもあった
   用水=主として農業(とくに田)用水
   「飲んではいけない」わけではない。
    しかし、上流で野菜やさらには肥桶を洗っている可能性もある
            ↑これらは、上水では厳しく取締られていた。
        ただし、神田上水は、もともと田んぼを通ってきた水

 凸用水と凹用水
   凸水路=丘陵の稜線付近を流す上/用水
     玉川上水、三田上/用水、千川上水、(一応)品川用水など
周囲より高い位置を水が流れるので、分水するのに便利、周囲の排水が流入しにくい
ただし、自然河川から取水しているので、川から稜線の上まで水を「上げる」必要がある
玉川上水=勾配をうまく利用。神田上水=(大洗)堰で水位を上げる〔文京区関口〕

   凹水路=自然河川に水源の水を流し込んだ用水に多い
     北澤用水、烏山用水(ともに目黒川の源流)など
周囲より低い位置を水が流れるので、小規模な勾配利用や堰で水位を上げる必要がある

 自然流下
   現代のようなポンプがない
   →上流から下流に向かって適切に勾配を設けて水を流す必要がある
      しかし、自然の地形は「都合よく」できてはいない
      地面を掘り下げた水路(白堀) に加え
木や石製の樋(白樋、箱樋)、土手(築立場)、トンネル(胎内堀)、水路橋(懸樋)、逆サイフォン(伏越)などで、勾配を調整した
   →余った水をどこかに流す(落とす)必要がある
      三田用水の場合、公式な終点は白金猿町(港区白金台2)。
実際には、台地上のここから、南南東方向の自然河川につないで目黒川に落としていて、その水路も三田用水普通水利組合の管理下にあった

 大堀/外堀 と 内堀
   大堀/外堀=用水路の本流
   内堀=本流から分けた水の流れる分水(自然河川でいう「分流」)
 組合全体の利害にかかわるのは、大堀の水路とその内堀への分水口(とくに位置、大きさ)
      →組合全体で決定する必要
 分水口から下流の内堀の利用・管理については、他の内堀関係者などの利害にかかわらない
→個々の内堀ごと、あるいは一定範囲の内堀ごとに「内堀水利組合」を作り、その関係者だけで、必要事項を決定していた。

    三田用水普通水利組合の場合、水利組合條例施行にあたり、東京府の指導で
      渋谷村、目黒村、大崎村、品川町 ごとに内堀組合が設置された
世田谷村では、旧代田村のみが組合村だったためか、内堀組合が設置された形跡はない
しかし、同村のための「内堀」である山下、溝ケ谷の両分水については、いちいち組合全体で審議・議決するのは煩雑に過ぎるので、上記の内堀組合同様の「自治」が認められていたと考えられる。

代官山ヒルサイド 近世の地図・絵図

とりあえず、代官山近辺まで描かれている、数少ない近世の地図のリンクと抜粋図

地図



〔国会図書館〕

御府内場末往還其外沿革圖書. [4]拾六中
(弘化3年9月 麻布~碑文谷村)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587256/5

御府内場末往還其外沿革圖書の解題/抄録 江戸幕府普請方において編纂した江戸の地誌。御府内および府内場末近辺の町々の時代的変化を、おおむね延宝年間(1673-81)ころから以後、地域を区切って記述している。文化4年(1807)老中牧野備前守忠精が長谷和泉守政良らに、府内の道路・橋梁・河梁・空閑地・馬場その他の沿革の調査を命じた。編纂事業は翌5年に着手、7年まで継続したが、8年12月に至り幕府の諸経費節減の方針のため中止となった。しかし天保元年(1830)12月老中水野忠成の命により再開、安政5年(1858)全22部折絵42枚の完成をみた。この書は普請方役所が府内の地割を行うのに必要な参考資料として編纂したものであったから、当初は完成した二本とも普請方役所に備えておいたが、非常災害を懸念し、万延元年(1860)8月一本を紅葉山文庫に納めた。その後、幕末文久年間(1861-64)ころから再び調査が始まり、本所・深川におよんだというが詳細は明らかでない。本書は拾六の部から弐拾の部まであり、各部は図書と添付の折絵図20帙からなる。一の部から拾五の部までを収める「御府内往還其外沿革」(当館請求記号:804-21)は本書と同様の書である。図書には宮寺・道・明地・堀川・土手・町屋などを色わけして示している。現在東京都公文書館、国立国会図書館、国立公文書館(内閣文庫)等に伝存しそれぞれ欠本があるが、都公文書館のものが最も欠本が少ないといわれている。(南和男)







〔国立公文書館〕
目黒筋御場絵図
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000000796&ID=M2008032520510889502&TYPE=large&IMG_FLG=on&NO=

文化2年(1805)作成された、江戸近郊に設定された幕府の御鷹場の地図です。文化7年以降、幕府が地誌の編集資料として昌平坂学問所に集めた書籍に捺された「編修地志備用典籍」の印があります。

「目黒筋」と呼ばれた馬込・世田谷・麻布・品川一帯に設定された鷹場の地図です。村名は、品川領は青、世田谷領は白と色分けされた楕円の中に書かれています。その他、御膳所・街道・寺社・大名屋敷等も記載されています。原図サイズ:187cm×255cm



〔国土地理院〕
【参考】
江戸實測図 (南)
https://kochizu.gsi.go.jp/items/172?from=category,7

晩年の伊能忠敬による測量に基づき、縮尺6000分の1(1町を6分)で作成された江戸図の模写図。別名「江戸府内図」と称され、手彩色で北部と南部の2枚で江戸市中を描いた。本図は、その南半分である。図中の凡例には、文化14年(1817)、高橋景保ほか6名が連署して、図を作製することになった背景や測量過程などが明記される。北は上野不忍池、東が中川、南は品川宿、西は堀之内妙法寺まで描かれている。




















〔東京国立博物館〕
宮益澁谷金王邉圖


















〔国会図書館〕
村尾嘉陵「江戸近郊道しるべ」23巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577964/4

行禅寺/九品仏道畧圖

絵図

〔国会図書館〕
村尾嘉陵「江戸近郊道しるべ」13巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577954/7


 猿楽塚の上空あたりから目切坂方向を俯瞰していると思われる図


【関連】

〔国会図書館〕
朱引図







































「東京府史行政篇 1巻」口絵

朝倉水車の竣工時期【未完】

東京都公文書館・蔵の

明治21年3月28日付け「水車営業継年季願」(朝倉徳次郎提出)

に添付されていたと見られる「差入申添書之事」(朝倉金蔵ほか連名)と題する書類の作成日は明治6年12月1日付けなので、申請自体はこの年の12月か翌明治7年の1月ころと思われる。

そして、「水車台帳」*(#31)によれば、明治7年4月に新設許可を得ているとされている(根拠資料不明だが、7年ごとに必要とされている「水車営業継年季願」を徳次郎氏が明治21年3月28日付けで行っているのでまず間違いないと思われる)

したがって、上記の「差入申添書之事」は、その新設許可申請の付属書類ということになる。

*鈴木芳行 2「近代東京の水車」〔公財〕とうきゅう環境財団/1992・刊所収
【未完】

ヒルサイドテラス旧web




重要文化財 旧朝倉家住宅に寄せて
https://web.archive.org/web/20140322062243/http://d-hillsideterrace.com:80/contents/old.html

徳道氏の復原イメージ

障子
https://web.archive.org/web/20121013110642/http://d-hillsideterrace.com/images/content/jyutaku_garasu-syoji.jpg

仏間
https://web.archive.org/web/20121013110629/http://d-hillsideterrace.com/images/content/jyutaku_butsuma.jpg

居間
https://web.archive.org/web/20121013110722/http://d-hillsideterrace.com/images/content/jyutaku_ima_heimen.jpg

床の間
https://web.archive.org/web/20121013110709/http://d-hillsideterrace.com/images/content/jyutaku_ima_ritsumen.jpg

台所
https://web.archive.org/web/20121013110703/http://d-hillsideterrace.com/images/content/jyutaku_daidokoro.jpg


江戸近郊農家の歴史
https://web.archive.org/web/20140322014038/http://d-hillsideterrace.com:80/contents/history.html


飄飄踉踉記
https://web.archive.org/web/20140322013908/http://d-hillsideterrace.com:80/comments/

= 氷川神社の遷座式 - 昭和13年の映像 =
https://web.archive.org/web/20140324054005/http://d-hillsideterrace.com:80/comments/24.html

= 朝倉家住宅の不思議 =
https://web.archive.org/web/20140324053821/http://d-hillsideterrace.com:80/comments/10.html

= 旧朝倉家住宅の土蔵 =
https://web.archive.org/web/20140324050721/http://d-hillsideterrace.com:80/comments/09.html

= 旧朝倉家住宅 =
https://web.archive.org/web/20140324053930/http://d-hillsideterrace.com:80/comments/05.html

=「目切り」は消え「鎗ヶ崎」は残る=
https://web.archive.org/web/20140324050952/http://d-hillsideterrace.com:80/comments/03.html

ヒルサイドテラスのうちそと

2007年 代官山考察「猿楽雑記」出版

https://web.archive.org/web/20140330042811/http://d-hillsideterrace.com:80/hillside/2000/2007_01.html