刊行した「猿楽雑記」(同氏著/2007・刊)の口絵に
「建物配置図昭和12年頃」
と題された、旧朝倉家住宅と現・ヒルサイドテラスやデンマーク大使館を中心とする、往時の朝倉家所有地の略図がある。
しかし、この略図に描かれている旧朝倉家住宅の外形は、明らかに現在のそれ(下図)とは差異がある。
「鈴木報告書」(後記)中の、旧朝倉邸1階実測図 |
■朝倉家の方々の…
お話では、冒頭の図は、朝倉徳道氏が作図したのではないかとのことである。
東大の鈴木教授による徳道氏らからの聞き取り結果、言い換えれば、朝倉家に遺る「記憶」については、
東京大学大学院工学系研究科建築学専攻鈴木研究室「旧朝倉邸(渋谷会議所)調査報告書(仮)」2002年3月(以下「鈴木報告書」という)
中にまとめられているが、旧朝倉家住宅の変遷については、
「西の廊下と北の廊下の端は、北西の平屋に接続している。この北西の棟は虎治郎の息子誠一郎一家が使用していた。建物は当初、東から風呂場、6畳の居室、8畳の居室からなって いたが、まもなく新しい風呂場が元の風呂場の北側に新設され、昭和15、5年頃に8畳の北側にさらに6畳の居室が増築された 。」
「『角の杉の間』と次の間の北側には廊下が通され、それを西に進むと茶室があるが、これ は新築当時無かったものが朝倉家の所有中に増築されたものである。茶室の北側には蔵が あり、室内から直接入る。」
「茶室は炉のある6畳、北側に控えの5畳(『蔵前(の部屋)』と呼ばれた)という構成だ が、…南西*の棟の廊下から「蔵前」へ至る廊下も後に設置された。」(以上、各p.24)
*杉の間等のある「南西の棟」から蔵前に通じる廊下は、存在しないので「北西」の誤記と考えられる。
と、されている。
■このように…
頭書の図は、朝倉家に遺る「記憶」と整合していることがわかる。
また、朝倉家の方々のおお話では、従前、徳道氏が保管していた文書中に、旧朝倉家住宅の新築当初のものと思われる簡単な図面が存在したとのことである*。
頭書の図を拡大すると、下図のとおり、建物の外形が実線と点線で描き分けられているが、単に記憶を再現したのであれば、このような描き分けをすることは考えにくいし、その必要もない。
とくに、蔵が点線で描かれていることからみで、たとえば、図面上で、棟梁だった「大政」こと秋元政太郎の差配する範囲と、他の施工者が差配する範囲**が描き分けられていたので、頭書の図でもそれを踏襲していた可能性が高い。
*鈴木報告書作成の資料として同教授に預託したものの、教授がほどなく亡くなったこともあって、その後の図面の消息が不明となっており、朝倉家には現存していない由。
**土蔵も、躯体(骨組)は木造であるが、内部の空間を広くとるために、特に小屋(屋根)の構造が一般住宅と異なるようである(日本民俗建築学会「民俗建築大辞典」柏書房/2001・刊 p.69)
【追記】2023/06/18
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