「旧朝倉家住宅 保存管理活用計画案策定報告書」平成17年10月(以下「保存活用案」)
中
参考資料―朝倉徳道氏、健吾氏への聞き取り調査
実施日時:2005年 9月28日PM2:00-PM4:30
によれば
・現在の敷地の西側下方に、弓道場がありその横に茶室があった。…茶室は昭和10年位に作り四畳半であった。流派は江戸千家で母(ヒサ)がやっていた。
・本宅内の茶室では、煎茶をやっていたようである。祖父(虎治郎)は煎茶が好きで、杉の間でよく飲んでいた。…
とされ、
また、「猿楽雑記」*p.125
でも
・角の杉の間…は虎治郎が一番多く客と会う部屋である。廊下側の隅に瓶掛け(鉄瓶を掛けた火鉢)を傍にして座り、自分で煎茶を入れ客に供した。
とあり、従前は不明だが、少なくとも、朝倉徳道氏(S06生)が「物心ついた」昭和10年ころ以降は、その祖父虎治郎氏は、もっぱら、抹茶ではなく、煎茶を愛好していたことが判る。
*朝倉徳道編著・同/2007・刊
■したがって…
旧朝倉家住宅の新築後、「猿楽雑記」の口絵「建物配置図昭和12年頃」
からみると早くても昭和12年以降に増築されたと推定される、主屋北西端の茶室のデザイン(意匠・仕様)についても、抹茶道ではなく、煎茶道との関係で検討する必要があることになる。
なお、
「鈴木報告書」*では、この茶室について
「外壁にへぎ板を張るなど内外の随所に野趣を見せ、形式的にもにじり口や貴人口も持たぬ 自由かつ略式の、いわゆる田舎造りの茶室である。」
と評している。
*東京大学大学院工学系研究科建築学専攻鈴木研究室「旧朝倉邸(渋谷会議所)調査報告書(仮)」2002年3月
しかし、調べてみると「にじり口〔躙口〕」は抹茶席独特の出入口で、煎茶席には存在しないようなので、上記評価は標準的な抹茶席を基準としたものであることがわかる。
この「鈴木報告書」には、煎茶と虎治郎氏の関わりについては言及がなく、後の「保存活用案」にで、煎茶道に関連の深い「中国趣味」の影響という観点から言及されるに至っている(pp.57・59)ことからみて、そもそも、鈴木教授の当初の調査時には、煎茶と虎治郎氏との関わりが判明していなかった可能性がある。
加えて、煎茶では、涼炉と呼ばれる置炉を用いる
https://www.yomiuri.co.jp/chubu/feature/CO022951/20181014-OYTAT50017.html
なお、尼﨑博正/麓和善/矢ヶ崎善太郎編著「庭と建築の煎茶文化」思文閣/H31・刊 https://www.shibunkaku.co.jp/publishing/list/9784784219445/ (余りに高価なので未読)
出光美術館・蔵 人物(青木木米〔もくべい〕)の右膝の前にある、上に急須状の器(急備焼〔きびしょう〕)を載せている円錐台形のものが「涼炉」 なお、当時は、今と違って、茶葉を急備焼で直接煎じていた |
ので、原則として囲炉裏は切らないのに対し、この茶室には半間というか畳の短辺幅四方の炉*が切られている
ことも、煎茶室である可能性を想定できなかった理由かもしれない。
【付記】しかも、天井の竿縁には蛭釘もある
炉の中心を少し外れているが理由・目的は不明 |
*もっとも、抹茶の茶室の囲炉裏の幅は、武野紹鷗が定めて以来1尺4寸四方とされているそうなので
(松平直敬「茶道通解」青山堂/1909・刊 p.70 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860691/49 )、
半間(3尺)四方の炉は、抹茶席として異例ということになる。
【追記】
昭和の前期に住宅設計で活躍した建築家の著書
山田醇「家を建てる人の爲に」資文堂/S03・刊
に掲載されているその設計例をみると、28+1例中、8畳和室の端に半間四方の囲炉裏を切っているものが14例(他に8畳の主人室の通常の位置に1.4尺の炉が1例)もある。
このことは、これが山田の「趣味」というばかりでなく、建築主にとっても、この「半間囲炉裏」に違和感、抵抗感が無かったことを示しているといえ、これが、大正中期ころ以降の一種の流行だったのかもしれない(通常の居室に設えれば「すきやき」も可能であるし。)
■ところで…
煎茶を愛好した江戸時代の著名人の一人として、紀行文集「遊歴雑記」の著者である、十方庵敬順という人がいる。
釈敬順などとも名乗ったことからも推測できるように、この隠居した僧侶は
http://www.maroon.dti.ne.jp/kwg1840/kikou.html
の
第三話 老人は郊外をめざす――『遊歴雑記』を読む
二幕 隠者のように のとおり
「眺めのいい所に野蒲団(ピクニック用の敷物)を広げて」「川の清流を汲んできて」「「帖昆炉(たたみこんろ)」(携帯こんろ)で湯を沸かし野点」をし、「長崎屋の丸ぼうると越後屋の塩釜」を茶菓子に煎茶を楽しんだ。
と、されている。【↓後述「追々々記」】
この敬順師の行状は、本人も書いているように、当時の人々の目からみても、相当奇異に見えたようであるが
猪瀬弘義「植治の庭における煎茶的発想」(以下「植治」)
https://ci.nii.ac.jp/naid/110004307995
にあげられている
「山林の面白き所、「水石の清き所」」「随所に茶を煮る」
あるいは、
池よりも川を好む
という、煎茶道のまさに「オ―ソドクスな常道」を行くものともいえ、同師は「ただの変わり者」ではなかったのである。
【参考】
「西湾茶会図録」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563615/20
■同様に…
煎茶の世界では
北岡秀和/麓和善「煎茶図録における煎茶席の室内意匠について」
日本建築学会 「学術講演梗概集. F-2, 建築歴史・意匠」(1996) pp.135 --136
http://id.nii.ac.jp/1476/00004423/
の図版がわかりやすいが、屋内であっても、極端な例としては、建具を取り払ってただ高欄(欄干)だけがあるといった開放的な、言い換えれば「まるで野の中にいるような」空間が好まれていたようである。
前掲論文図版 「文房の茶」「文人の茶」なので、文物を飾り並べて、それらを題材に会話を楽しんだらしい。 小規模な本草会〔ほんぞうえ≒博物学会〕、古物会〔こぶつえ≒考古学会〕などと通底するサロン的な活動といえる。 |
先に、旧朝倉家住宅の増築経過をトレースしているとき
新築当時の旧朝倉家住宅
https://sarugakuduka.blogspot.com/2019/01/blog-post_26.html
に気付いたことなのだが
この茶室は、
・目黒川の谷越しに対岸にある祐天寺方向の台地を見はらせる方向に大きく窓を開くほかに
・三田用水の水を落としたとされる、邸内の人工の渓流に向かって窓が開かれて、渓流の音を聴くのに最適というかむしろ間近に聴くにはほとんど唯一無二の位置取り
にあるし、
この「趣向」は(音については距離や傾斜の違いからやや劣るとしても)杉の間にもほぼ共通しているようである。
額入障子を効果的に使える場所といえる |
あるいは、虎治郎氏は、よりよい景観と水音を求めて、何度も東光園に命じて植木を移動させたり流れを作り変えていたのかもしれない。
【補記】
「活用案」のp.59に
「煎茶の庭の特徴とされるのが「流れの蹲踞」と「降り井戸」であるが、旧朝倉家庭園にはこ
れらが2つとも存在する。 」
とあり、また、p.56の上の図中に
おり蹲踞
の文字がみえるが、いずれも、具体的な位置や形状はあきらかではない。
*場所についてご教示を受けて判明したので、近日中に写真追加予定
【追記】
「降り井戸」はまだ不明ながら、「降り蹲踞」ならば、18年1月に、杉の間から撮影した写真があった。
降り井戸の「見立て」といえるのかもしれない 余談ながら、手前の地表の霜柱の跡も妙になつかしい |
【追々記】
2019年3月15日、流れの蹲踞を撮影してきた
腰掛待合跡の上流方向筋向いにあった 右手前から左中央やや下に水路がある |
【追々々記】十方庵敬順師の「帖昆炉」
「山林の面白き所、「水石の清き所」」「随所に茶を煮る」を「文字通り」に実践した、十方庵敬順師の、嗜好というか奇行を特徴付ける物に、野布団〔和紙に油をしみ込ませた油紙に厚手の木綿地を縫い付け、その中央部に頭を通すスリットを開けた、ポンチョ兼キャンピングマットのようなもの〕と並んで、帖昆炉〔携帯用コンロ〕がある。
しかし、前者については、その著書の「遊歴雑記」中に挿絵がある
のに対し、後者については、その名前以上のことは解説がない。
(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952977/186参照)
ただ、「帖」〔たたみ〕と名づけるからには、単に携帯用というわけでななく(そもそも、前掲の青木木米の絵でもわかるように、煎茶の涼炉は抹茶の風炉と違ってコンパクトなので「取っ手」なり「ケース」なりを工夫すれば、そのまま携帯できるはずである)、折り畳める、英語でいえばフォールディングな焜炉と考えるほかない。
【参考】
近現代の帖昆炉:オプティマス 8R |
もう何年も前になるが、ネット上でようやく見つけた、ヒントになりそうなものが、この
http://www.page.sannet.ne.jp/rokano28/edo/tabi3.htm
ページの3段目に写真のある「携帯用酒温器」だった。
とくにWeb Masterにお願いして送っていただいた詳細な写真のうち、1枚がこれ
岡野亮介画伯ご提供 |
で、酒を燗する部分は折り畳めないが、火を起こす焜炉の部分は、銅板を巧みに細工して折り畳んで厚さ1センチほどの板状になるようになっていて、焜炉の部分だけなら懐に入れて持ち運ぶことは可能である。
これと、茶葉と急須〔ボーフラ〕と茶碗があれば、
・水は、最寄りの川の水を汲み
・火は、そこらの、枯れ草を火付けに、枯れ枝を燃料にすれば
茶を煮る〔当時は、茶をボーフラで直接煎じていた〕ことが可能である。
(火点けをどうしたかは不明だが、火打ち石を使うなりあるいは火縄を持ち歩いたのかもしれない)。
【追記】19/05/29
最近になって「これでしかあり得ない」という画像を見つけた
https://www.facebook.com/rocaniiru/posts/1894370463924609/
【追々記】21/03/02
長年の念願がかなって「これでしかあり得ない」という現物を入手できた
【追記】
遊歴雑記を著した敬順師が、江戸近郊のどのような場所で「煎茶を煮た」のかについて
上記のように「帖昆爐」と思われるものを入手した
のを機に、歌川廣重や江戸名所図會の絵をてがかりに調べ始めた。
今後、ここ
今後、ここ
に、順次追記してゆく予定である。
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