2019年2月6日水曜日

「キンキのおばさん」

■虎治郎氏を…

ときおり訪ねてきたという、「キンキのおばさん」という上品な老婦人がいたという。

「猿楽雑記」p.153の、朝倉徳道氏と岩橋謹次氏の対談によれば

〔徳道氏〕「虎治郎は小学生頃に木場の材木店に働きに出されていたようです。私の昔の記憶に「キンキのおばさん」という名前があるんです。家によく来ていたという記憶がある。品のよいおばあさんで、加賀の千代女とつながりのある人だ、と聞いたことがあります。旧宅調査をされた東大の鈴木先生の意見では、キンキというのは木場にあった「近江屋喜助材木店」のことではないか。」

また、
「朝倉虎治郎翁事績概要」 の p.2 には、

虎治郎は愛知縣碧海郡旭村の富商杉浦太一の次男にて、東京深川木場に於てありて近喜と稱されて著名なりし材木商近江屋喜助と縁戚なる關係に依って、この縁組が成立したのである。

とある。

■これらによれば…

近江屋喜助という材木商*は、近世から続く老舗と思われたことから、国会図書館・蔵の

「諸問屋名前帳57巻・ [35] 材木、熊野炭
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2548756

を見たところ、以下のデータに行き着いた。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2548756/38
 
*「材木商」といっても、江戸時代終盤近くまでは、材木問屋〔といや〕と材木仲買商とは、可能な取引形態が裁然と区別されていた。
 「近江屋喜助」商店は、後記のように材木問屋の系列の「材木商」らしい


■この…
 
諸問屋名前帳」なる帳簿、解説によると
 
嘉永4年(1851)諸問屋再興以来の諸問屋および商工組合の連名簿で、各その住居を記し、実印を捺している。58冊。廃業者または他人に譲渡したもの、新規加入のあった時には書き加えて幕末におよんでいる。…書継の内容は、新規加入、相続、譲渡、改名、転宅、家主・店支配人の変更などに及んでいる。

とされているので、この近江屋喜助の材木店は

嘉永4年ころは、白魚屋敷(現東京駅八重洲南口東方)で「地借」つまり借地上に店を構えて営業していたところ、
文久元(1861)年に、深川大和町の「家持」になって、つまり、いわゆる「沽券」を取得して自前の土地・建物で営業するようになった

ことになる。
(なお、右側の白魚屋敷の喜助と左側の深川大和町の喜助とでは印影が異なるので、後者は前者の後継者であろう。)

■この店は…

「日本全国商工人名録. [明治25年版]」日本全国商工人名録発行所/1892・刊

のp.135
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994140/169

に、以下のとおり掲載されていて

住所が深川区大和町で文久期のそれと一致している

山田喜助という実名も判明した。

■しかし…

大正13年発行の
東京土木建築総覧 : 横浜ヲ含ム
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979159
昭和15年発行の
帝国産業興信録 : 京浜及び附近. 木材編
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1055955
には、この近江屋または山田喜助の記載はない。


■なお…

諸問屋名前帳」に、熊野問屋、板材木問屋とあることは、この近江屋喜助が、「いわゆる〔とんや〕」ではなく、委託売買を行って手数料収入を得るという、「正真正銘の〔といや〕」であることを示している。

これら問屋の起源については

東京材木商協同組合「東京の材木仲買史」同/1966・刊 p.249
の、以下の説明がわかりやすい。

「深川木場材木問屋及び川辺竹木薪炭問屋と並んで文化年間より材木三問屋と呼ばれた板材木熊野問屋は、「御用材木屋」の流れをくむ最も古い伝統を有していた。延宝年間仲買・問屋の分離により、板材木問屋と熊野材木問屋の二つの問屋仲間が結ばれていたが、宝永年間(一七〇四)に御用材運送中、羽根田沖で廻漕船が難破したとき、両問屋が協力して、その材木を取り纏めて築地明石町へ運び込み無事に御用を果したことが動機となって、松野壱岐守が町奉行のとき、連合して「板材木熊野問屋」と唱えるようになった。しかしこの時の連合は合併でないから其の後も内部的には二つの形態をとっている。板材木の方は天龍川流域から産出され、掛塚湊から船で入荷してくる出来合品の樌、板割や、熊野問屋と合同してから縁故の生じた新宮の中板等を扱って「羽柄問屋」と呼ばれるようになった。
また熊野問屋の方は、元来大和国の年貢樽木を熊野廻りで江戸の材木蔵に納入する仕事が主であったが、輸送の関係で次第に紀州藩と縁が深くなり、延享二年三月、同藩の藩有林材の江戸仕入方(販売所)が八丁堀にできてから、藩の後援を得て、その売り広めを手伝うようになった。また中には新宮湊から積出される板類や小角を主として取り扱って、前記板材木問屋と同じような業態となり共に羽柄問屋と呼ばれるようになった店もある。」





【追記】

最近になって読むことができた、ある資料によれば、虎治郎氏と近江屋とは以下のような関係と想像される。

(おそらく小学校高等科卒業後の)13歳で叔父にあたる山田喜助に伴われて上京する。

喜助は、その経営する深川区大和町の材木問屋近江屋【ここがキンキこと近江屋】の後継者として、いずれ養子にすべく虎治郎氏を杉浦家 から引き取っている。

虎治郎氏は、近江屋にしばらく寄食後、その年の10月、いわば修行のために、神田材木町の材木商中村庄次郎に預けられた。*

19歳まで村田屋に勤務した後、近江屋に帰り、20歳の折の徴兵検査を経て21歳で入営するまでは、近江屋で仕事をしていたと思われる。

*前記、明治25年当時の「日本全国商工人名録」によれば、
近江屋 山田喜助は、深川区大和町13(現江東区冬木18-3)に
村田屋 中村庄次郎、神田区材木町14(現千代田区岩本町1-8-1)に
それぞれ店を構えていたことが判明している。

*材木の業界では、おそらく江戸時代からの伝統で、実子でも経験・知見を積ませるために、業界内の他業種に預けたようである。
  明治20年近くの時期になると、江戸時代の幕府のルールに基づく業態の区分けは「あいまい」になりつつあったようだが、原則的には、近江屋のような材木問屋〔といや〕 は、山持など荷主の依頼で、仲買人に材木を売却したり、逆に仲買人の依頼によって山持などから木材を購入して、いわゆる「利ざや」ではなく「手数料(口銭)」 を貰う仕事であり
  仲買人は、問屋を通じて仕入れた材木を、大工や船大工に売却して(したがって、仕入れた木材はこれらのプロにまとめ売りするので、この業界では「小売業」は成立していなかった)「利ざや」を稼ぐ商売。
  そのような業界なので、自家にいては、材木問屋では材木店の細かい仕事はわからず、逆もまた同様なので、材木の流通過程を全て知ることはできない。
  そのため、山持などの荷主は後継者となる子弟を問屋に預けたり、問屋が子弟を仲買人に預けたり、逆に仲買人は問屋に預けたりして、木材の流通過程全体を理解させるのが一般的だったようで、そのような慣行もあって、問屋である近江屋は、業態の異なる仲買人である村田屋 に虎治郎氏を預けたのだと思われる。

 しかし、近江屋に戻った虎治郎氏は、近江屋の後継者争いに遭遇し、村田屋で「江戸前」のさっぱりとして気風に染まっていたせいもあるのかもしれないが、あっさりと、そこから、逃げ出したのではないかと思われる。

2019年2月1日金曜日

虎治郎氏の煎茶

■渋谷区教育委員会の…

「旧朝倉家住宅 保存管理活用計画案策定報告書」平成17年10月(以下「保存活用案」)

参考資料―朝倉徳道氏、健吾氏への聞き取り調査
                    実施日時:2005年 9月28日PM2:00-PM4:30
によれば

・現在の敷地の西側下方に、弓道場がありその横に茶室があった。…茶室は昭和10年位に作り四畳半であった。流派は江戸千家で母(ヒサ)がやっていた。
・本宅内の茶室では、煎茶をやっていたようである。祖父(虎治郎)は煎茶が好きで、杉の間でよく飲んでいた。…

とされ、

また、「猿楽雑記」*p.125
でも

・角の杉の間…は虎治郎が一番多く客と会う部屋である。廊下側の隅に瓶掛け(鉄瓶を掛けた火鉢)を傍にして座り、自分で煎茶を入れ客に供した。

とあり、従前は不明だが、少なくとも、朝倉徳道氏(S06生)が「物心ついた」昭和10年ころ以降は、その祖父虎治郎氏は、もっぱら、抹茶ではなく、煎茶を愛好していたことが判る。

*朝倉徳道編著・同/2007・刊

■したがって…

旧朝倉家住宅の新築後、「猿楽雑記」の口絵「建物配置図昭和12年頃」





からみると早くても昭和12年以降に増築されたと推定される、主屋北西端の茶室のデザイン(意匠・仕様)についても、抹茶道ではなく、煎茶道との関係で検討する必要があることになる。

なお、

「鈴木報告書」*では、この茶室について
外壁にへぎ板を張るなど内外の随所に野趣を見せ、形式的にもにじり口や貴人口も持たぬ 自由かつ略式の、いわゆる田舎造りの茶室である。」
と評している。


*東京大学大学院工学系研究科建築学専攻鈴木研究室「旧朝倉邸(渋谷会議所)調査報告書(仮)」2002年3月

しかし、調べてみると「にじり口〔躙口〕」は抹茶席独特の出入口で、煎茶席には存在しないようなので、上記評価は標準的な抹茶席を基準としたものであることがわかる。

この「鈴木報告書」には、煎茶と虎治郎氏の関わりについては言及がなく、後の「保存活用案」にで、煎茶道に関連の深い「中国趣味」の影響という観点から言及されるに至っている(pp.57・59)ことからみて、そもそも、鈴木教授の当初の調査時には、煎茶と虎治郎氏との関わりが判明していなかった可能性がある。

加えて、煎茶では、涼炉と呼ばれる置炉を用いる

https://www.yomiuri.co.jp/chubu/feature/CO022951/20181014-OYTAT50017.html


なお、尼﨑博正/麓和善/矢ヶ崎善太郎編著「庭と建築の煎茶文化」思文閣/H31・刊 https://www.shibunkaku.co.jp/publishing/list/9784784219445/ (余りに高価なので未読)

出光美術館・蔵
 人物(青木木米〔もくべい〕)の右膝の前にある、上に急須状の器(急備焼〔きびしょう〕)を載せている円錐台形のものが「涼炉」
 なお、当時は、今と違って、茶葉を急備焼で直接煎じていた

ので、原則として囲炉裏は切らないのに対し、この茶室には半間というか畳の短辺幅四方の炉*が切られている




ことも、煎茶室である可能性を想定できなかった理由かもしれない。

【付記】しかも、天井の竿縁には蛭釘もある
炉の中心を少し外れているが理由・目的は不明

*もっとも、抹茶の茶室の囲炉裏の幅は、武野紹鷗が定めて以来1尺4寸四方とされているそうなので
 松平直敬「茶道通解」青山堂/1909・刊 p.70 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860691/49 )、
 半間(3尺)四方の炉は、抹茶席として異例ということになる。


【追記】
昭和の前期に住宅設計で活躍した建築家の著書
山田醇「家を建てる人の爲に」資文堂/S03・刊
に掲載されているその設計例をみると、28+1例中、8畳和室の端に半間四方の囲炉裏を切っているものが14例(他に8畳の主人室の通常の位置に1.4尺の炉が1例)もある。
このことは、これが山田の「趣味」というばかりでなく、建築主にとっても、この「半間囲炉裏」に違和感、抵抗感が無かったことを示しているといえ、これが、大正中期ころ以降の一種の流行だったのかもしれない(通常の居室に設えれば「すきやき」も可能であるし。)

 

■ところで…
煎茶を愛好した江戸時代の著名人の一人として、紀行文集「遊歴雑記」の著者である、十方庵敬順という人がいる。

釈敬順などとも名乗ったことからも推測できるように、この隠居した僧侶は
http://www.maroon.dti.ne.jp/kwg1840/kikou.html

第三話 老人は郊外をめざす――『遊歴雑記』を読む
二幕 隠者のように
のとおり


「眺めのいい所に野蒲団(ピクニック用の敷物)を広げて」「川の清流を汲んできて」「「帖昆炉(たたみこんろ)(携帯こんろ)で湯を沸かし野点」をし、「長崎屋の丸ぼうると越後屋の塩釜」を茶菓子に煎茶を楽しんだ。

と、されている。【↓後述「追々々記」】

この敬順師の行状は、本人も書いているように、当時の人々の目からみても、相当奇異に見えたようであるが


猪瀬弘義「植治の庭における煎茶的発想」(以下「植治」)

https://ci.nii.ac.jp/naid/110004307995

にあげられてい
「山林の面白き所、「水石の清き所」」「随所に茶を煮る」
あるいは、
池よりも川を好む
という、煎茶道のまさに「オ―ソドクスな常道」を行くものともいえ、同師は「ただの変わり者」ではなかったのである。


【参考】
「西湾茶会図録」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563615/20

■同様に…


煎茶の世界では

北岡秀和/麓和善「煎茶図録における煎茶席の室内意匠について」
日本建築学会 「学術講演梗概集. F-2, 建築歴史・意匠」(1996) pp.135 --136

http://id.nii.ac.jp/1476/00004423/

の図版がわかりやすいが、屋内であっても、極端な例としては、建具を取り払ってただ高欄(欄干)だけがあるといった開放的な、言い換えれば「まるで野の中にいるような」空間が好まれていたようである。


前掲論文図版
「文房の茶」「文人の茶」なので、文物を飾り並べて、それらを題材に会話を楽しんだらしい。
小規模な本草会〔ほんぞうえ≒博物学会〕、古物会〔こぶつえ≒考古学会〕などと通底するサロン的な活動といえる。

先に、旧朝倉家住宅の増築経過をトレースしているとき
 新築当時の旧朝倉家住宅
 https://sarugakuduka.blogspot.com/2019/01/blog-post_26.html
に気付いたことなのだが
この茶室は、
・目黒川の谷越しに対岸にある祐天寺方向の台地を見はらせる方向に大きく窓を開くほかに
三田用水の水を落としたとされる、邸内の人工の渓流に向かって窓が開かれて、渓流の音を聴くのに最適というかむしろ間近に聴くにはほとんど唯一無二の位置取り
にあるし、


この「趣向」は(音については距離や傾斜の違いからやや劣るとしても)杉の間にもほぼ共通しているようである。
額入障子を効果的に使える場所といえる



あるいは、虎治郎氏は、よりよい景観と水音を求めて、何度も東光園に命じて植木を移動させたり流れを作り変えていたのかもしれない。

【補記】
「活用案」のp.59に

煎茶の庭の特徴とされるのが「流れの蹲踞」と「降り井戸」であるが、旧朝倉家庭園にはこ
れらが2つとも存在する。


とあり、また、p.56の上の図中に

おり蹲踞

の文字がみえるが、いずれも、具体的な位置や形状はあきらかではない。

 *場所についてご教示を受けて判明したので、近日中に写真追加予定

【追記】


 「降り井戸」はまだ不明ながら、「降り蹲踞」ならば、18年1月に、杉の間から撮影した写真があった。

降り井戸の「見立て」といえるのかもしれない
余談ながら、手前の地表の霜柱の跡も妙になつかしい


【追々記】
2019年3月15日、流れの蹲踞を撮影してきた

腰掛待合跡の上流方向筋向いにあった
右手前から左中央やや下に水路がある

【追々々記】十方庵敬順師の「帖昆炉」

「山林の面白き所、「水石の清き所」」「随所に茶を煮る」を「文字通り」に実践した、十方庵敬順師の、嗜好というか奇行を特徴付ける物に、野布団〔和紙に油をしみ込ませた油紙に厚手の木綿地を縫い付け、その中央部に頭を通すスリットを開けた、ポンチョ兼キャンピングマットのようなもの〕と並んで、帖昆炉〔携帯用コンロ〕がある。

しかし、前者については、その著書の「遊歴雑記」中に挿絵がある
のに対し、後者については、その名前以上のことは解説がない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952977/186参照)

ただ、「帖」〔たたみ〕と名づけるからには、単に携帯用というわけでななく(そもそも、前掲の青木木米の絵でもわかるように、煎茶の涼炉は抹茶の風炉と違ってコンパクトなので「取っ手」なり「ケース」なりを工夫すれば、そのまま携帯できるはずである)、折り畳める、英語でいえばフォールディングな焜炉と考えるほかない。


【参考】
近現代の帖昆炉:オプティマス 8R

もう何年も前になるが、ネット上でようやく見つけた、ヒントになりそうなものが、この
http://www.page.sannet.ne.jp/rokano28/edo/tabi3.htm
ページの3段目に写真のある「携帯用酒温器」だった。

とくにWeb Masterにお願いして送っていただいた詳細な写真のうち、1枚がこれ
岡野亮介画伯ご提供

で、酒を燗する部分は折り畳めないが、火を起こす焜炉の部分は、銅板を巧みに細工して折り畳んで厚さ1センチほどの板状になるようになっていて、焜炉の部分だけなら懐に入れて持ち運ぶことは可能である。

これと、茶葉と急須〔ボーフラ〕と茶碗があれば、
・水は、最寄りの川の水を汲み
・火は、そこらの、枯れ草を火付けに、枯れ枝を燃料にすれば
茶を煮る〔当時は、茶をボーフラで直接煎じていた〕ことが可能である。
(火点けをどうしたかは不明だが、火打ち石を使うなりあるいは火縄を持ち歩いたのかもしれない)。

【追記】19/05/29

最近になって「これでしかあり得ない」という画像を見つけた
https://www.facebook.com/rocaniiru/posts/1894370463924609/

【追々記】21/03/02

長年の念願がかなって「これでしかあり得ない」という現物を入手できた




【追記】

遊歴雑記を著した敬順師が、江戸近郊のどのような場所で「煎茶を煮た」のかについて
上記のように「帖昆爐」と思われるものを入手した
のを機に、歌川廣重や江戸名所図會の絵をてがかりに調べ始めた。
今後、ここ
に、順次追記してゆく予定である。