ときおり訪ねてきたという、「キンキのおばさん」という上品な老婦人がいたという。
「猿楽雑記」p.153の、朝倉徳道氏と岩橋謹次氏の対談によれば
〔徳道氏〕「虎治郎は小学生頃に木場の材木店に働きに出されていたようです。私の昔の記憶に「キンキのおばさん」という名前があるんです。家によく来ていたという記憶がある。品のよいおばあさんで、加賀の千代女とつながりのある人だ、と聞いたことがあります。旧宅調査をされた東大の鈴木先生の意見では、キンキというのは木場にあった「近江屋喜助材木店」のことではないか。」
また、
「朝倉虎治郎翁事績概要」 の p.2 には、
「虎治郎は愛知縣碧海郡旭村の富商杉浦太一の次男にて、東京深川木場に於てありて近喜と稱されて著名なりし材木商近江屋喜助と縁戚なる關係に依って、この縁組が成立したのである。」
とある。
■これらによれば…
近江屋喜助という材木商*は、近世から続く老舗と思われたことから、国会図書館・蔵の
「諸問屋名前帳57巻・ [35] 材木、熊野炭」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2548756
を見たところ、以下のデータに行き着いた。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2548756/38 |
*「材木商」といっても、江戸時代終盤近くまでは、材木問屋〔といや〕と材木仲買商とは、可能な取引形態が裁然と区別されていた。
「近江屋喜助」商店は、後記のように材木問屋の系列の「材木商」らしい
「近江屋喜助」商店は、後記のように材木問屋の系列の「材木商」らしい
■この…
「諸問屋名前帳」なる帳簿、解説によると
とされているので、この近江屋喜助の材木店は
嘉永4年ころは、白魚屋敷(現東京駅八重洲南口東方)で「地借」つまり借地上に店を構えて営業していたところ、
文久元(1861)年に、深川大和町の「家持」になって、つまり、いわゆる「沽券」を取得して自前の土地・建物で営業するようになった
ことになる。
(なお、右側の白魚屋敷の喜助と左側の深川大和町の喜助とでは印影が異なるので、後者は前者の後継者であろう。)
■この店は…
「日本全国商工人名録. [明治25年版]」日本全国商工人名録発行所/1892・刊
のp.135
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994140/169
に、以下のとおり掲載されていて
住所が深川区大和町で文久期のそれと一致している |
山田喜助という実名も判明した。
■しかし…
大正13年発行の
東京土木建築総覧 : 横浜ヲ含ム
(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979159)
昭和15年発行の
帝国産業興信録 : 京浜及び附近. 木材編
(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1055955)
には、この近江屋または山田喜助の記載はない。
■なお…
「諸問屋名前帳」に、熊野問屋、板材木問屋とあることは、この近江屋喜助が、「いわゆる〔とんや〕」ではなく、委託売買を行って手数料収入を得るという、「正真正銘の〔といや〕」であることを示している。
これら問屋の起源については
東京材木商協同組合「東京の材木仲買史」同/1966・刊 p.249
の、以下の説明がわかりやすい。
「深川木場材木問屋及び川辺竹木薪炭問屋と並んで文化年間より材木三問屋と呼ばれた板材木熊野問屋は、「御用材木屋」の流れをくむ最も古い伝統を有していた。延宝年間仲買・問屋の分離により、板材木問屋と熊野材木問屋の二つの問屋仲間が結ばれていたが、宝永年間(一七〇四)に御用材運送中、羽根田沖で廻漕船が難破したとき、両問屋が協力して、その材木を取り纏めて築地明石町へ運び込み無事に御用を果したことが動機となって、松野壱岐守が町奉行のとき、連合して「板材木熊野問屋」と唱えるようになった。しかしこの時の連合は合併でないから其の後も内部的には二つの形態をとっている。板材木の方は天龍川流域から産出され、掛塚湊から船で入荷してくる出来合品の樌、板割や、熊野問屋と合同してから縁故の生じた新宮の中板等を扱って「羽柄問屋」と呼ばれるようになった。
また熊野問屋の方は、元来大和国の年貢樽木を熊野廻りで江戸の材木蔵に納入する仕事が主であったが、輸送の関係で次第に紀州藩と縁が深くなり、延享二年三月、同藩の藩有林材の江戸仕入方(販売所)が八丁堀にできてから、藩の後援を得て、その売り広めを手伝うようになった。また中には新宮湊から積出される板類や小角を主として取り扱って、前記板材木問屋と同じような業態となり共に羽柄問屋と呼ばれるようになった店もある。」
【追記】
最近になって読むことができた、ある資料によれば、虎治郎氏と近江屋とは以下のような関係と想像される。
(おそらく小学校高等科卒業後の)13歳で叔父にあたる山田喜助に伴われて上京する。
喜助は、その経営する深川区大和町の材木問屋近江屋【ここがキンキこと近江屋】の後継者として、いずれ養子にすべく虎治郎氏を杉浦家 から引き取っている。
虎治郎氏は、近江屋にしばらく寄食後、その年の10月、いわば修行のために、神田材木町の材木商中村庄次郎に預けられた。*
19歳まで村田屋に勤務した後、近江屋に帰り、20歳の折の徴兵検査を経て21歳で入営するまでは、近江屋で仕事をしていたと思われる。
*前記、明治25年当時の「日本全国商工人名録」によれば、
近江屋 山田喜助は、深川区大和町13(現江東区冬木18-3)に
村田屋 中村庄次郎、神田区材木町14(現千代田区岩本町1-8-1)に
それぞれ店を構えていたことが判明している。
*材木の業界では、おそらく江戸時代からの伝統で、実子でも経験・知見を積ませるために、業界内の他業種に預けたようである。
明治20年近くの時期になると、江戸時代の幕府のルールに基づく業態の区分けは「あいまい」になりつつあったようだが、原則的には、近江屋のような材木問屋〔といや〕 は、山持など荷主の依頼で、仲買人に材木を売却したり、逆に仲買人の依頼によって山持などから木材を購入して、いわゆる「利ざや」ではなく「手数料(口銭)」 を貰う仕事であり
仲買人は、問屋を通じて仕入れた材木を、大工や船大工に売却して(したがって、仕入れた木材はこれらのプロにまとめ売りするので、この業界では「小売業」は成立していなかった)「利ざや」を稼ぐ商売。
そのような業界なので、自家にいては、材木問屋では材木店の細かい仕事はわからず、逆もまた同様なので、材木の流通過程を全て知ることはできない。
そのため、山持などの荷主は後継者となる子弟を問屋に預けたり、問屋が子弟を仲買人に預けたり、逆に仲買人は問屋に預けたりして、木材の流通過程全体を理解させるのが一般的だったようで、そのような慣行もあって、問屋である近江屋は、業態の異なる仲買人である村田屋 に虎治郎氏を預けたのだと思われる。
しかし、近江屋に戻った虎治郎氏は、近江屋の後継者争いに遭遇し、村田屋で「江戸前」のさっぱりとして気風に染まっていたせいもあるのかもしれないが、あっさりと、そこから、逃げ出したのではないかと思われる。
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