野崎家文書 一二 天明八年正月『極秘録』七三(pp.190-191)
七十三
安永九子四月
三田用水路目切坂之際、当村藤兵衛 ・伝兵衛 ・惣左衛門右三人持高内用水堀鋪と目切屋敷との間へ垣をする、此訳何如と目切方へ承候得は、根生院領下渋谷名主源八致候由申、依糺相候得ば、此地所は源八配下五郎兵衛持地にて平次と申者家作致候由也、其後は何れ共右水道敷は此方に地主も有之、且用水組合の懸りも有之候、何分此通うニては不相済由申答候へは、垣を為取可申と申置、間もなく其所を切下ケ引平均家を相立候、依之段々子細申断立合間数相改候処、漸々御水帳間数に合か不合か也、何れの地にも畦敷等の除地無之処もなく、又か様の嵯峨〔槎枒〕地には相応に根張も可有之候処、余り利〔理〕不尽成仕方に付、地主は勿論用水組合江も申達一同見分の上出訴可致と存候所、最早家作も致候故何分了簡致候様、若又後々用水障に相成候か、又は地所障り等も有之は早速為取払可申様申に付、無拠組合江も申達絵図・証文を取差置候、尚又以来其趣差心得べき也、外に絵図・証文に委く有之候。
〔解題に向けて〕
文中の「目切屋敷」の位置が特定できれば、かなり「垣を」した位置が特定できるはずである。
「屋敷」というのは、必ずしも建物が建っているとは限らないようであるが、少なくとも誰かが区画して、その範囲を「所持」していた場所とは考えられる。
安永9年4月は略1780年5月なので、それよりほぼ40年下る文政3年3月〔略1820年4・5月〕が、村尾嘉陵が当地を訪れたときのスケッチがある
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577954/7 |
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577954/8 |
これによれば、「目切坂之際」で、「用水堀鋪」との間に「垣をする」ことのできる、「嵯峨〔槎枒〕地」といえそうな土地は、現在の槍が崎交差点にあたる旧三田用水「坂(本)口」直下と、同じく目黒元富士取付道路向かいの現ヒルサイドテラス・アネックスあたりにしかない。
前者であれば、後に、朝倉倉蔵が吉永群蔵に売却した土地ということになるし
後者であれば、後に、吉永郡蔵が朝倉利勢に売却した土地の可能性が生じる。
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