2020年4月19日日曜日

旧朝倉家住宅の庭園のポンプ


■旧朝倉家住宅の…

庭園内の北西端近く、目切坂上、水路最下流部に近い場所に、さび付いた電動の井戸ポンプがある。


  註:以下のポンプの写真は、特別に許可を得た場所で撮影しています

ポンプの側面のエンボス文字をみると

表面(ローター側)


MARUHACHI IRON WORKS

NAGOYA JAPAN

 

 

 

 

 
 

裏面
 
 
MARUHACHI

SELF-OILING

POWR PUMP

150㎜ STROKE

 

 

 

 

 

 

 


で 


 井筒(奥の地表近く)


井筒とポンプとの位置関係は
後記【参考資料】参照



から、ポンプで吸い上げた水を



圧力タンク
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 

に送り込み、タンク内の圧力が一定以上になると



タンク上部のスイッチ
 

  
  
 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



が作動して、



ポンプの最上部のモーター





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 への電力を切る、という、形状はやや違っているが、現在の井戸ポンプと同じ仕組みで動作している。



■朝倉家住宅に…


 当初電動と思われるポンプが導入されたのは「本宅新築支払控」



 
 
 
 
 
 
 
 
 

によれば

大正9年11月(「井戸屋」への支払いは同年5月)



国産の電動井戸ポンプが製造されたのは、大正7年の日立製作所によるものが初とされている(小泉和子「昭和台所なつかし図鑑」平凡社/1998・刊 P.20)ので、この点からも現在遺っているポンプが大正9年に設置された可能性は低い。

■加えて…


「株式会社丸八ポンプ製作所」なる会社
http://www.malhaty.com/

は現存していて、同社のカタログ掲載の、深井戸用ポンプ
 
昭和9年のカタログ

 
 
戦後昭和20年代のカタログ
 

 
 


























 









と、形状(後記の参考資料からみても、当初は既存の先行品のコピーだろう)ばかりではなく、筐体のMPCとの文字が一致しているので、ここが、この庭のポンプの製造会社と思われる。

■とはいえ…


その社史
http://www.malhaty.com/company/history.html

によれば、同社は大正12年に名古屋で創立され(当初は手押しポンプを製造する会社だったとのことである。)、昭和12年に本社を東京に移転しているとのことなので、現在の庭のポンプが大正9年に設置されたことはあり得ない。

そこで、仮に電動ポンプの耐用年数を10数年と考え、現在のポンプは、同社の本社移転前の昭和10年代初めころまでに交換されたと考えると、エンボス文字の「NAGOYA」と整合することになる。*1

しかし、その当時は、すでに渋谷町営水道は開通していたし*2、とりわけ朝倉虎治郎は同町々議で、しかも水道の敷設委員であり、率先して積極的に水道を利用しなければならない立場だったので、少なくとも、この時点で井戸水を旧朝倉家住宅の台所などで使う生活用水として利用する意図があったとは考えにくい。

■どうやら…

この昭和10年前後という時期は、旧山手通りのための道路の拡幅工事と並行して、三田用水路のヒューム管による暗渠化工事の始まった時期でもあり、その工事によって、用水の朝倉家住宅への供給が止まる*3ことに対応するため、それに代わる庭水の調達を目的としたものではないかと想像される。

朝倉虎治郎の孫にあたる、故・朝倉徳道氏の記憶では、昭和10年代には、現在のヒルサイドテラスC棟裏手にある「猿楽小塚」の周囲に2つの池があったとのことであり、ポンプからの水の行く先としては、さしあたって、これらの池以外には考えにくい。

池のうち一つでは鯉を飼っていたらしいが、もう一つは、庭の「渓流」用の水源だったのだろう。
 




*1 「MARUHACHI IRON WORKS 」を素直に日本語に戻すと「丸八鉄工所」となるが、

名古屋工場要覧: 昭和12年版


P.91によると、当時名古屋にあった「丸八鉄工所」は、「自転車用パイプ類」の製造業だった一方、P.55の「丸八ポンプ製造所」については、主要製品として、家庭用電動ポンプが冒頭にリストアップされている。
 
*2 渋谷町水道は、公式な竣工は大正13年3月とされているが、大正12年9月の震災当時、現在の旧山手通の前身の道路沿いに18インチの「本管」に通水されていたことが、震災記録で確認できる。

岡村又市・編「関東大地震(大正十二年)震害調査報告 第2巻」土木学会/S02・刊 p.28
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268668/25
 



澁谷町臨時水道部「施工中に在る澁谷町水道」同/T11・刊 より
中央が朝倉虎治郎


*3 環状6号道路(現・旧山手通り)の設計図〔部分〕(東京都公文書館・蔵)

朝倉家住宅のための分水口は描かれていない。






























【参考資料】

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1029080/12

西原脩三「衛生装置ヲ設クル方ヘ : 住宅衛生工事解説」(パイロツト衛生叢書 ; 第1輯)西原衛生工業所/S05・刊

の「深井戸用ポンプ」の仕組みの解説


 
 

2019年8月3日土曜日

虎治郎と煎茶 -旧朝倉邸の茶室の『謎』-あるいは -旧朝倉家住宅「探検」案内-




























■旧朝倉家住宅の…

資料をみると、茶、とくに煎茶に関する記述が目に付く。

煎茶は、今でも、ペットボトル入りのそれが売られているほど日常的な飲み物であるである一方、いわゆる煎茶道の流派も数多い。

虎治郎の愛好した煎茶が、幅の広い煎茶の世界のどのあたりに位置するのかに興味を感じたのだが、それだけでなく、これだけ広く、部屋数の多い、旧朝倉家住宅の部屋(玄関、トイレも含む)の使い分けの一部を知る意味もあって、資料の中から茶にかかわる記述を抽出してみた。





上記とほぼ同趣旨であるが、資料紹介を兼ねて、抜き書きを掲載しておく。


 茶自体は、遣唐使が持ち帰ったといわれ、以来、薬効など様々な目的・形で飲用されていたはずであるが、飲用というか「喫する」際の精神性を重視した煎茶をもたらしたのは、禅宗の一派、黄檗宗の明僧隠元といわれている。
ときは17世紀半ば、村田珠光が提唱し、武野紹鴎がいわば体系化た侘茶を千利休が完成させてから、半世紀余り後のことである。
 
以後の盛衰は、以下の論文が明快に整理しているので、表の形にまとめてみた。
 

 
抹茶とくに「草庵の茶」といわれる侘茶の世界と、煎茶の世界とで、極端なまでに異なるのが、茶室であり、前者が、表千家の不審庵、裏千家の今日庵、武者小路千家の官休庵という各流派を代表する茶室が、草庵を極端なまでに凝縮した空間であるのに対し…















と、いうのは


ところのあるようで、この思想を、極端な形で、実践したのは、紀行文集「遊歴雑記」の著者である十方庵敬順という引退した僧である。





































































 
 
【当日配布資料抜粋】
 
 
旧朝倉邸と煎茶をめぐる「想像」
                          2019/08/01  きむらたかし
Q01 虎治郎氏は抹茶との関わりはないのか
眞砂子氏の覚書によると、邸内北西にあった茶室に五島慶太を招いたこともある。
親しく、かつ、いわゆる上客なのだから、本来なら亭主である虎治郎氏自身が手前をするのが常道といえるが、甥の妻である眞砂子氏が呼ばれて手前をしている。
虎治郎氏は、抹茶の手前が、できないか、苦手か、嫌いだったと考えるほかない。
Q02 現在ある主屋の茶室は何の目的で建てたのか
    開放的な点では煎茶室的であり、天井の蛭釘をみると抹茶室的である。
    しかし、炉は、存在すること自体が煎茶室の、そのサイズが抹茶室の、それぞれ定石から外れていて、いかえれば、それらの、どちらでもあり、どちらでもない、茶室といえる。
    想像の域を出ないが、厳寒期には、杉の間は、ガススト―ブが2台あってもあまりに寒かったので、多少は温かい部屋で煎茶を楽しもうとしたのではなかろうか。
              すでに、敷地北西に4畳半の本格的な抹茶室があったので、少なくとも、抹茶室の定石に拘泥する必要性は薄かったという面もあるだろう。
    杉の間同様にガラス障子はないが、それより部屋が狭く窓の面積も少ないので、それほどの火力を要さずに温めることが可能なので3尺角という定石外の炉を切ったのではなかろうか。なお、裏千家の大炉は、2月に限って使うとのことなので、やはり、それも部屋の暖房を兼ねていることになる。
    つまり、この部屋の炉は、そのサイズ通りの囲炉裏として切られたのではなかろうか。
Q03 虎治郎氏は、煎茶のどこかの流派に所属していたのか
              徳道氏は、虎治郎氏の弓の流派と母親の茶の流派には言及しているが、煎茶のそれについては言及がないことから、明確に特定の流派に所属してはいなかったのではないかと思われる。
              また、Q2でみた茶室の炉の趣向は、師匠がいれば制止あるいは反対されたと思われる。もっとも、炉縁を外して板を敷いた上に敷き込む畳は半畳サイズなので、抹茶の炉のようには目立たない。
ただし、徳道氏によれば、茶道具は、いわゆる日用雑器とは別に、専用の棚に保管されていたとのことなので、日常の茶のレベルを超える嗜好の対象だったことは疑いないので、その全部あるいは一部が現存するのであれば、煎茶道について専門知識、それも、できれば、特定の流派に属さず全般的な知見のある人の鑑定を得るのも一考といえる。
                                 以上

 
 

2019年6月21日金曜日

朝倉水車の水源

■朝倉水車の…

設けられていた水源は、三田用水、しかもその本水路です。

しかし「用水」である以上、さらには、三田「上水」(と、細川上水)の水路敷を利用することで、幕府から許可から受けた、という三田「用水」の出自からしても、

用水=用水路やその分水下流の「水田の灌漑用水」

なので、春先から秋口まで(旧暦3月初め~8月末≒新暦4月初め~9月末)だけ、水路に水があるの原則です(但し、事実上工業用水にもなった明治12年以降は当然別)。

では、なぜ、明治7年に水車を設置できたのか、について
https://mitaditch.blogspot.com/2019/06/blog-post.html
で考察を開始しました。

2019年3月25日月曜日

野崎家文書より

「渋谷区史料 第三 -諸家文書-」渋谷区/S57.刊
野崎家文書 一二 天明八年正月『極秘録』七三(pp.190-191)

 七十三
安永九子四月


三田用水路目切坂之際、当村藤兵衛 ・伝兵衛 ・惣左衛門右三人持高内用水堀鋪と目切屋敷との間へ垣をする、此訳何如と目切方へ承候得は、根生院領下渋谷名主源八致候由申、依糺相候得ば、此地所は源八配下五郎兵衛持地にて平次と申者家作致候由也、其後は何れ共右水道敷は此方に地主も有之、且用水組合の懸りも有之候、何分此通うニては不相済由申答候へは、垣を為取可申と申置、間もなく其所を切下ケ引平均家を相立候、依之段々子細申断立合間数相改候処、漸々御水帳間数に合か不合か也、何れの地にも畦敷等の除地無之処もなく、又か様の嵯峨〔槎枒〕地には相応に根張も可有之候処、余り利〔理〕不尽成仕方に付、地主は勿論用水組合江も申達一同見分の上出訴可致と存候所、最早家作も致候故何分了簡致候様、若又後々用水障に相成候か、又は地所障り等も有之は早速為取払可申様申に付、無拠組合江も申達絵図・証文を取差置候、尚又以来其趣差心得べき也、外に絵図・証文に委く有之候。

〔解題に向けて〕
文中の「目切屋敷」の位置が特定できれば、かなり「垣を」した位置が特定できるはずである。
「屋敷」というのは、必ずしも建物が建っているとは限らないようであるが、少なくとも誰かが区画して、その範囲を「所持」していた場所とは考えられる。
安永9年4月は略1780年5月なので、それよりほぼ40年下る文政3年3月〔略1820年4・5月〕が、村尾嘉陵が当地を訪れたときのスケッチがある

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577954/7































http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577954/8






これによれば、「目切坂之際」で、「用水堀鋪」との間に「垣をする」ことのできる、「嵯峨〔槎枒〕地」といえそうな土地は、現在の槍が崎交差点にあたる旧三田用水「坂(本)口」直下と、同じく目黒元富士取付道路向かいの現ヒルサイドテラス・アネックスあたりにしかない。
前者であれば、後に、朝倉倉蔵が吉永群蔵に売却した土地ということになるし
後者であれば、後に、吉永郡蔵が朝倉利勢に売却した土地の可能性が生じる。
https://sarugakuduka.blogspot.com/2019/01/blog-post.html