2019年8月3日土曜日

虎治郎と煎茶 -旧朝倉邸の茶室の『謎』-あるいは -旧朝倉家住宅「探検」案内-




























■旧朝倉家住宅の…

資料をみると、茶、とくに煎茶に関する記述が目に付く。

煎茶は、今でも、ペットボトル入りのそれが売られているほど日常的な飲み物であるである一方、いわゆる煎茶道の流派も数多い。

虎治郎の愛好した煎茶が、幅の広い煎茶の世界のどのあたりに位置するのかに興味を感じたのだが、それだけでなく、これだけ広く、部屋数の多い、旧朝倉家住宅の部屋(玄関、トイレも含む)の使い分けの一部を知る意味もあって、資料の中から茶にかかわる記述を抽出してみた。





上記とほぼ同趣旨であるが、資料紹介を兼ねて、抜き書きを掲載しておく。


 茶自体は、遣唐使が持ち帰ったといわれ、以来、薬効など様々な目的・形で飲用されていたはずであるが、飲用というか「喫する」際の精神性を重視した煎茶をもたらしたのは、禅宗の一派、黄檗宗の明僧隠元といわれている。
ときは17世紀半ば、村田珠光が提唱し、武野紹鴎がいわば体系化た侘茶を千利休が完成させてから、半世紀余り後のことである。
 
以後の盛衰は、以下の論文が明快に整理しているので、表の形にまとめてみた。
 

 
抹茶とくに「草庵の茶」といわれる侘茶の世界と、煎茶の世界とで、極端なまでに異なるのが、茶室であり、前者が、表千家の不審庵、裏千家の今日庵、武者小路千家の官休庵という各流派を代表する茶室が、草庵を極端なまでに凝縮した空間であるのに対し…















と、いうのは


ところのあるようで、この思想を、極端な形で、実践したのは、紀行文集「遊歴雑記」の著者である十方庵敬順という引退した僧である。





































































 
 
【当日配布資料抜粋】
 
 
旧朝倉邸と煎茶をめぐる「想像」
                          2019/08/01  きむらたかし
Q01 虎治郎氏は抹茶との関わりはないのか
眞砂子氏の覚書によると、邸内北西にあった茶室に五島慶太を招いたこともある。
親しく、かつ、いわゆる上客なのだから、本来なら亭主である虎治郎氏自身が手前をするのが常道といえるが、甥の妻である眞砂子氏が呼ばれて手前をしている。
虎治郎氏は、抹茶の手前が、できないか、苦手か、嫌いだったと考えるほかない。
Q02 現在ある主屋の茶室は何の目的で建てたのか
    開放的な点では煎茶室的であり、天井の蛭釘をみると抹茶室的である。
    しかし、炉は、存在すること自体が煎茶室の、そのサイズが抹茶室の、それぞれ定石から外れていて、いかえれば、それらの、どちらでもあり、どちらでもない、茶室といえる。
    想像の域を出ないが、厳寒期には、杉の間は、ガススト―ブが2台あってもあまりに寒かったので、多少は温かい部屋で煎茶を楽しもうとしたのではなかろうか。
              すでに、敷地北西に4畳半の本格的な抹茶室があったので、少なくとも、抹茶室の定石に拘泥する必要性は薄かったという面もあるだろう。
    杉の間同様にガラス障子はないが、それより部屋が狭く窓の面積も少ないので、それほどの火力を要さずに温めることが可能なので3尺角という定石外の炉を切ったのではなかろうか。なお、裏千家の大炉は、2月に限って使うとのことなので、やはり、それも部屋の暖房を兼ねていることになる。
    つまり、この部屋の炉は、そのサイズ通りの囲炉裏として切られたのではなかろうか。
Q03 虎治郎氏は、煎茶のどこかの流派に所属していたのか
              徳道氏は、虎治郎氏の弓の流派と母親の茶の流派には言及しているが、煎茶のそれについては言及がないことから、明確に特定の流派に所属してはいなかったのではないかと思われる。
              また、Q2でみた茶室の炉の趣向は、師匠がいれば制止あるいは反対されたと思われる。もっとも、炉縁を外して板を敷いた上に敷き込む畳は半畳サイズなので、抹茶の炉のようには目立たない。
ただし、徳道氏によれば、茶道具は、いわゆる日用雑器とは別に、専用の棚に保管されていたとのことなので、日常の茶のレベルを超える嗜好の対象だったことは疑いないので、その全部あるいは一部が現存するのであれば、煎茶道について専門知識、それも、できれば、特定の流派に属さず全般的な知見のある人の鑑定を得るのも一考といえる。
                                 以上

 
 

2019年6月21日金曜日

朝倉水車の水源

■朝倉水車の…

設けられていた水源は、三田用水、しかもその本水路です。

しかし「用水」である以上、さらには、三田「上水」(と、細川上水)の水路敷を利用することで、幕府から許可から受けた、という三田「用水」の出自からしても、

用水=用水路やその分水下流の「水田の灌漑用水」

なので、春先から秋口まで(旧暦3月初め~8月末≒新暦4月初め~9月末)だけ、水路に水があるの原則です(但し、事実上工業用水にもなった明治12年以降は当然別)。

では、なぜ、明治7年に水車を設置できたのか、について
https://mitaditch.blogspot.com/2019/06/blog-post.html
で考察を開始しました。

2019年3月25日月曜日

野崎家文書より

「渋谷区史料 第三 -諸家文書-」渋谷区/S57.刊
野崎家文書 一二 天明八年正月『極秘録』七三(pp.190-191)

 七十三
安永九子四月


三田用水路目切坂之際、当村藤兵衛 ・伝兵衛 ・惣左衛門右三人持高内用水堀鋪と目切屋敷との間へ垣をする、此訳何如と目切方へ承候得は、根生院領下渋谷名主源八致候由申、依糺相候得ば、此地所は源八配下五郎兵衛持地にて平次と申者家作致候由也、其後は何れ共右水道敷は此方に地主も有之、且用水組合の懸りも有之候、何分此通うては不相済由申答候へは、垣を為取可申と申置、間もなく其所を切下ケ引平均家を相立候、依之段々子細申断立合間数相改候処、漸々御水帳間数に合か不合か也、何れの地にも畦敷等の除地無之処もなく、又か様の嵯峨〔槎枒〕地には相応に根張も可有之候処、余り利〔理〕不尽成仕方に付、地主は勿論用水組合江も申達一同見分の上出訴可致と存候所、最早家作も致候故何分了簡致候様、若又後々用水障に相成候か、又は地所障り等も有之は早速為取払可申様申に付、無拠組合江も申達絵図・証文を取差置候、尚又以来其趣差心得べき也、外に絵図・証文に委く有之候。

〔解題に向けて〕
文中の「目切屋敷」の位置が特定できれば、かなり「垣を」した位置が特定できるはずである。
「屋敷」というのは、必ずしも建物が建っているとは限らないようであるが、少なくとも誰かが区画して、その範囲を「所持」していた場所とは考えられる。
安永9年4月は略1780年5月なので、それよりほぼ40年下る文政3年3月〔略1820年4・5月〕が、村尾嘉陵が当地を訪れたときのスケッチがある

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577954/7































http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577954/8






これによれば、「目切坂之際」で、「用水堀鋪」との間に「垣をする」ことのできる、「嵯峨〔槎枒〕地」といえそうな土地は、現在の槍が崎交差点にあたる旧三田用水「坂(本)口」直下と、同じく目黒元富士取付道路向かいの現ヒルサイドテラス・アネックスあたりにしかない。
前者であれば、後に、朝倉倉蔵が吉永群蔵に売却した土地ということになるし
後者であれば、後に、吉永郡蔵が朝倉利勢に売却した土地の可能性が生じる。
https://sarugakuduka.blogspot.com/2019/01/blog-post.html

2019年3月24日日曜日

「木挽き」のチカラ

■旧朝倉家住宅が…

重要文化財に指定されてた際その「附」〔つけたり〕として、その棟札が指定されている。

全高560㎜、全幅157㎜、厚さ23

虎治郎氏の、実弟かつ義弟の八郎氏が筆書したもので、箱に入れられ、棟木に打ち付けられていたという。








最上部に、普請の安全と成功を祈願するカミ5柱の名前が書かれているが、この種の棟札としては、ごく一般的といわれているカミの名であり、特段の特徴はない。





一方、最下部に、各職方の親方クラスが並び
  


中央の 

 
棟梁  秋 元 太郎【大政】〔だいまさ〕
から右に
頭  齊 藤 次郎【鳶淙】
工  高 田  吉【石留】
と並ぶのは、ほぼ定石のようだが(但し、重要な職方である左官が欠落している)、一番右端に

木挽 伊 藤 勝次郎

とあるのに注目された。
 
 ■木挽き、とは…

杣(樵)が立木を伐った原木やそれに準ずる木材を、
 


その木材を、大鋸〔おが:一言でいえば「巨大な縦挽き鋸」、もともとは2人挽きのものを指し、1人挽きのものは「前挽き」という〕で挽いて、
 
 
大工の使う材木
 
 
を仕立てる職方である。
 
 
 
 
*林氏は、世田谷区の次太夫掘(六郷用水〔現・丸子川〕の別名)民家園の長屋門の修復工事のための床板の挽き立ての依頼を受けていたが、その機会に、木挽き作業のデモンストレーションが公開された。
 これが経緯となって、同園ではボランティアによる木挽きの会が結成され、現在も活動中。

■大正中期の…
 
しかも東京で、木挽きがこのような普請の職方の一人として関与するのは、以下の理由から、珍らしいと思われる。

  明治中期以降はすでに機械製材が普及し、大正時代中期には東京では、機械挽きや材木商に所属していた木挽きの挽いた各種の種類・寸法の木材が「出来合」で入手可能だったと思われること

  明治初期までは、木挽きは大工、左官、鳶職などと同様各町内にいたが、明治後半以降、木挽きは材木(仲買)商に所属するようになっていたこと
 
 
 
  そのため「オーダーメイド」の材木が必要でも、材木商に「特注」すれば、店所属の木挽きによる手挽きの材木が入手可能だったはずであること


 しかし、このような環境下で、あえて木挽きを起用するのには、確固とした「目的」と、それなりの「成算」があったからに違いない。
 
 それは、朝倉虎治郎氏が、青年期の職業経験(+縁戚経験)を通じて「木挽きのチカラ」を目の当たりにしていたからではなかろうか? 
 
 
■おそらく…





 
 
【資料編】

我が家の書棚から、四半世紀以上眠っていた本を発掘しました。

わが国大工の工作技術に関する研究
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN00522613

著者:黒 川 一  夫
監修:村 松 貞次郎
発行:財団法人労働科学研究所

書籍の出版は、昭和59年ですが、ガリ版刷り、生写真張り付けの原著の出版は昭和24年。
戦時中の調査・研究に基づくもののようです。

同書のpp.109-112に木挽きについての言及があった。
原著者は、昭和20年代半ばに亡くなっていることから、著作権は消滅していると思われるので、転載することにする。




 鋸挽きは大きな材になると大工では手に負えなくなって-る。すなわち周知の如く木挽職の技術にまたなければならない。現在では製材機が普及されているので木挽は非常にすくなくなってはいるが、それでもこの原始的な技術と労働は僻地において、今なおその存在をみるのである。
 木挽の労働はきわめて重労働である。昔から「木挽一升飯」とか、木挽のことを一名「大鋸」などと、言ったものである。ある文献によると、アメリカでも木挽作業は一日六千カロリーを摂取するとある。もって、いかに重筋肉労働であるかが理解されるであろう。
 したがってこの木挽の労働量の評価は、その賃金算定にもいきおい明瞭に表れてくるのである。すなわち幅一尺の材を標準として単価を決定し、それ以上は幅の増加によって「分」増しとなるのである。その割合はどうであるかと言うと、幅二尺になると、一尺につき五割増、三尺では一尺につき十割増、六尺になると一尺につき二十割増しの三倍となる。これを昔の賃金で言えば、一尺の場合が五十銭、二尺のときが尺当り七十五銭として、壱円五十銭、三尺のときは尺当り一円となって三円、六尺になると尺当り壱円五十銭で九円となるわけである。
 その上昇率はまさに等比級数に近いものがある。もって材の幅が加わることによって、如何にその労働量に影響を及ぼすかを理解することができるであろう。
 木挽職の仕事はこのように大きな労力の負担をともなうものであるために、一方においては彼等は出来るだけ道具にも力学的抵抗がかからないように苦心を施して仕事をやるのである。すなわち鋸の目立のしかたも大工の鋸のそれとは異っていて、図に示すごと-、やすりで「ちょんかけ」と俗に呼ばれる仕掛をこしらえるのである。これによって出来るだけ引っかかりがよく、軽く出せるようにするわけである。
 しかしながらこのへんのところ、如何せん手工的技術のみじめざを暴露せざるを得ないものがある。
 ところが同じく木材を切断するとしても、それが機械化され動力に依存する製材機となると、歯も上述の如き小細工の必要がなくなってくる。つまり機械鋸の歯形は、その巨大なる動力によってしゃにむに動かされるために「ちょんかけ」など無く、堂々たる両も鋭利なる形をとっているのである。
 わたくしは、この木挽鋸の形をみるにつけ、そこに人間が人力そのものを以て大自然にせまっていった或る限界を見せつけられるような気持がするのである。
 ところで前述の賃金の分増しの算定は、単にそれが労働量のみ昆倒したものであるというみかたは、少しく苛酷なる評価のしかたであって、そこには当然技能的な要素も加味されなければならないのである。と言うのは・木挽職の仕事はいかにも単純なものには違いないのであるが、その技能の習得とても決して生やさしいものではない。
 木挽が幅物を挽くときには、まずその姿勢からして、特に整っていなければならない。姿勢が正しく決っていないと、長い時間の間には必ずくせが出てきて、ゆがみが出てくる。「木挽の両足の足跡は一日中変らない-(但し足はときどき前後にかえるが)」とは彼等が如何に姿勢をくずきないものであるかを語るものであろう。身体の重心のとり方が、つねに一定していなければならないわけである。(またそのような事情も手伝って幅物を挽くとき両方から挽くのである。つまり、かけ声をかけながら、お互いゆがまないように注意し合うのである。
 木晩の仕事は姿勢ばかりでなく、鋸の歯ならびに重要なる鍵がある。つまり、「木挽の鋸の歯には三本むらがあったら、挽跡はどんどん曲ってくる。」と言われたものである。木挽の鋸は大工のものと異って歯の数がきわめてすくないからである。
 写真は同じくのこぎり作業の姿勢の側面である。使用されているのこぎりは一尺五寸の鼻丸である。


 「ががり」**を使うときの姿勢
ががりの使い方はのこぎりのやり方とは逆に尻手上りに挽-ことと、なるべくねかきないようにして挽くことが必要である。(材に対する鋸の角度は四五度位のものであろう。)
またそのために鋸の形の方でもそのように作られてある。すなわち既に述べた如く、鏡板の背はほんのりとそって;いかにも軽-出るように見せかけてあるし、柄もほんのりとそって、尻手上りにできているのである。
ががりはのこぎりを使うときよりも長時間続けてやる場合は労働的には楽である。一日の作業量は木挽の場合、幅一尺物を挽き割るとして、延三十尺位のものであろう。写真㈲は同じくががり作業の姿勢の側面である


*  同書が書かれた、戦中、戦後期でも、木挽きはかなり優遇されていたらしい






** 大工が使用する縦挽き鋸