2019年1月12日土曜日

旧朝倉家住宅建築当時のインフラ

■旧朝倉家住宅について…

とくにその建築当時のインフラ、つまり
電気
ガス
水道

 そして
電話
について検討してみた。

■電気

旧朝倉家住宅の着工は、施主の朝倉虎治郎氏のタキ夫人が記帳していた「本宅新築支払控」(以下「支払控」)によれば、大正7年7月ころである



朝倉徳道「猿楽雑記」同/H17・刊 口絵


その当時、当地に電気が供給されていたことは

豊多摩郡役所・編「東京府豊多摩郡誌」同/T05・刊 p.521
 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874656/282
の「朝倉精米所」の条に
「大字下澁谷七百四十九番地に在り、明治七年設立、日本形水車一臺十馬力と電動機十馬力一臺を以て、年額米二萬四千石を精白す。」
とあることから確認できる。

加えて、
同書p.475
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874656/259
によれば、下渋谷650番地に明治38年に東京市電気局澁谷發電所(火力)が設立されていることから、ここの電気を引いた可能性が高い。


T07測「東京府豊多摩郡澁谷町平面圖」抜粋

ただし、東京電力「関東の電気事業と東京電力 電気事業の創始から東京電力 50 年への軌跡」同社/2002・刊 p.200 によれば
東京電燈、東京市電気局、日本電燈が過当競争防止のために締結した「電気供給区域及料金其他ノ供給条件ニ関スル契約」(三電協定)が大正6年10月に効力を生じた結果、豊多摩郡澁谷町は、東京電燈の「普通供給区域」として、同社以外は新規の電力供給契約は結べなくなった。
もっとも、ここは、東京市電気局も「特別供給区域」として、従来からの顧客に電力を供給することは可能だった。
*「三電協定」の詳細は 東京市「東京市会史 第4巻」同市会事務局/S10  p.921-
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272293/477

また、支払控にも、「デンキ 高?橋」との記録がある(大正8年10月10日支払など)

 
2階座敷の間仕切り上部の吊束の側面の灯具
後から束の中に電線を通すのは困難である


■ガス

当地にガスが供給された時期については、東京ガスの社史(2篇)によっても判明しなかった。
しかし、
東京大学大学院工学系研究科建築学専攻鈴木研究室「旧朝倉邸(渋谷会議所)調査報告書(仮)」2002年3月(以下「鈴木報告書」)中の「旧朝倉邸(渋谷会議所)関連年表」の「行:大正9年/列:旧朝倉邸」の末行によれば「台所の煙だしは後からつけれた」とされている。



炊事にガスを使うのであれは通常煙だしは不要であり、せいぜい窓を一部開ける程度ですむので、少なくとも当初はガスが供給されておらず、薪を燃料して竈で炊事をしていた可能性が高いといえる。

もっとも、ガスがあっても、炊飯や大量の湯を沸かすときだけは竈を使う例もある。

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【資料映像】



杉並区梅里の眞盛寺の施餓鬼法要(2010年7月16日)の折の同寺庫裏
檀家など参加者に振舞うため、大量の素麺を竈で茹でる
庫裏の煙だし
小石川高田老松町にあった細川侯爵家の「鶴亀の邸」のそれを大正末に移築したもの

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しかし、旧朝倉家住宅の杉の間の床の間には、いわば「とって付けたように」ガス栓が2つも取り付けられている。

目の粗い畳は、田舎家の筵を模したのであろうか

床の間にガス栓を、しかも2つも付けるというのはやや乱暴な話であり(しかも見切りもなしに壁から直出し)、


建築当初から屋内にガスを配管するのであれば、ガス栓の配置や取り付け方法に相応の配慮・工夫があって然るべきであり、やはり、ガスは建築後に引かれた見るべきだろう。


















 *鈴木報告書p.17に「朝倉邸が建設された当時、すでに暖房があったが、虎治郎はこの屋敷には使わなかった。それがいまとなっては、木材の傷みを抑える結果となった。」とあるが、このストーブ以外の用途は考えにくい2個のガス栓とは整合しない。その「暖房」とはスチームなどによる集中暖房を指しているのだろうか?
 【追記】190321
 

 ガス栓は、他にこれといった用途は考えにくいので(まさか、ここですき焼きをしたとも思えない。また、虎治郎氏が所用で帰宅が遅くなったときに鍋料理を食べたのは、主屋北東隅に女中部屋と並びの部屋といわれる〔鈴木報告書p.24〕)、ストーブ用としか考えられないが、ガス栓を2つ並べるというのも異例であろう。

     ふと思いついたことがあって、3月15日に、現場を確認してきた。
     旧朝倉家住宅の、おそらく他のほとんどの部屋は、外壁線から見ると、順次、

    雨戸-ガラス障子-(廊下)-障子ー部屋
    
となっていて、外壁線と部屋との間は、雨戸を開けた状態でも、ガラス障子と障子という2つの建具がある。

     しかし、杉の間の場合、雨戸の内側にガラス障子がなく、すぐ障子となっている。
 
 
 つまり、雨戸を開ければ、障子1枚が冬の寒さを防ぐことになるし、さらに、この杉の間は(おそらく、盛土された)崖線の直上で、目黒川の谷からの風が吹きつける位置にある。

 この部屋は、虎治郎氏が、陳情客を応接した場所といわれており〔同p.32〕、当主の趣味には合っているとしても、いくら目下とはいえ(親戚筋など目上の客は南西の応接室に〔同p.23〕、議会や地元の政治団体である公友会の同輩・同志は2階の座敷に通し〔同p.19〕、時として宴会を催したようである〔関係者からの聴き取り結果〕)客には過酷すぎる環境といえ、それがストーブを2台置く結果になったのではなかろうか。
 ■水道

当時、この地に近代水道かなったととは、ほほ間違いがない。
この地に給水した、澁谷町水道が正式に開通したのは
渋谷町水道部編「上水道布設記念碑写真帖」同/S02・刊
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112061
によれば大正13年3月だからである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112061/4

もっとも、
復興局「大正十二年 関東大地震震害調査報告(第二巻)上水道・下水道・瓦斯工事之部/鉄道・軌道之部」土木学会/S02・刊
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268668
のp.30
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268668/25
に、よれば

西郷橋付近の、(旧)鉢山492番地先で
三田用水路決壊のため築堤部の道路を押し流し埋設管を露出するに至り鐵管としては被害なきも甚危険に付一時斷水す」とあることから、正式な竣工前ではあるが、当時すでに今の旧山手通りの前身にあたる道路に18インチの「本管」が敷設され、通水されていたことがわかる。



澁谷町会議員であった虎治郎氏は、この水道の水道布設委員だったので
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112061/17
【参考渋谷町臨時水道部「施工中に在る澁谷町水道」同/T11・刊 
https://books.google.co.jp/books?id=xlkfJyDkWW8C&pg=PP480&dq=%E6%96%BD%E5%B7%A5%E4%B8%AD+%E6%B8%8B%E8%B0%B7+%E6%B0%B4%E9%81%93&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwio8eWxuOffAhUEBIgKHTctBxMQuwUIKzAA#v=snippet&q=%E5%A7%94%E5%93%A1&f=false
    
45ページ目口絵
「水道部前に於ける理事者及水道委員の一行(大正11年9月撮影)」
と題する写真の中列中央の虎治郎氏

水道水の利用が可能になり次第、率先垂範して、自邸に引水したのではないかと想像されるのであるが、着工が大正10年5月なので、いずれにせよ旧朝倉家住宅の完成には間に合わない。

となると、問題は、当初旧朝倉家住宅ではどのように水を確保したのかにある。

まず思いあたるのは、当ブログの

旧朝倉家住宅と三田用水
https://sarugakuduka.blogspot.com/2019/01/blog-post_5.html

で触れた、三田用水の水なのであるが、雑用水や庭水ならば別として、用水の、いわば多摩川の水そのものを、そのまま飲料水として使うのには無理があったと思われる。
現に、
サッポロビール株式会社広報部社史編纂室「サッポロビール120年史」同社/H08・刊 p.172
によれば、同社の前身である日本麦酒も、明治35年以降は、沈澄池を設けてそこに一旦水を貯めて、不純物を沈澱させた上澄みの水を(おそらくは、さらにろ過して)使っているのである。

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【資料映像】

浜田徳太郎編「大日本麦酒三十年史」同社/S11・刊 口絵
手前中央がM35築造の沈澄池(第一貯水池)、左奥がM44築造の第2貯水池
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個人の住宅にそういった施設を備えることは、費用の面でも、メンテナンスの手間を考えても非現実的で、「商家」である朝倉家としては経済的合理性に従って井戸水を使ったと考えられる。

当地は、目黒川と渋谷川の間の稜線部に位置するとはいえ、同じ条件下にある小田急線の東北沢駅付近の例からみても意外に地下水位は高い位置にあり、井戸水の確保に困ることはなかったと思われる。

現に、前掲の支払控を見ても
「井戸」(大正9年5月31日)と
「ポンプ」の代金が計上されており(大正9年11月14日)

* 「ポンプ」の支払額は、572円90銭であるが
 桑井いね「おばあさんの知恵袋」文化出版局/S51 ・刊 pp.174-175 によれば、昭和2年当時、日立製の井戸ポンプが550円とだったとされていることから、この朝倉家が購入したポンプが電動式だったことがわかる。

不純物の少ない井戸水と電動ポンプがあったからこそ、2階

2階トイレ内の洗面器

や、1階でもいわゆる水場から離れた場所に洗面所を設けることができたのであろう。

1階「応接」南西脇のトイレ内の洗面台
水栓と洗面器は後世に変更されている


現在の邸内の井戸


【追記】

当時、電動の井戸ポンプが市販されていたことは

T08年04月08日発行の官報(2001号)12面
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954115/12

「レコート揚水用ほんぷ」「▲働力モーター用もあり」
告が掲載されていることからも明らかである。


しかも、このイラストのポンプ。(多かれ少なかれ、原理的に似たようなものになるとはいえ)今も旧朝倉家住宅の庭に放置されているそれと、ほぼ同じ形状である。

下部の左側に地中への配管が見える
右側のプーリーをベルトを介してモーターで回したのだろう

*小泉和子「昭和台所なつかし図鑑」(平凡社/1998・刊)p.20 によれば「井戸を水道のように使うために開発されたのが電動ポンプである。大正七年には日立製作所が、昭和六年には東芝が製造を始めた。」たという
 当然、それ以前から、輸入品は入手可能だったはずである。
 もっとも、上記の「レコートぽんぷ」も(実用)新案番号が書かれているので、国産品と思われる。


【追々記】

 目黒区Webの「歴史を訪ねて 碑文谷池・清水池
http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/rekishi/chuo/himonya.html

中の図「区内地下水分布」(旧朝倉家住宅の位置を赤矢印で補入)


昭和35年という戦後の経済成長ともなう地下水位の低下が懸念され始めた時期の調査であるが、それでも当地の地下水位の標高は、25メートルを超えている。
(また、水色「2」に塗られていない地域は、地下水位が地表面から6メートル以浅)

地盤の標高は31メートル程度であるから、大正期であれば、実用揚程8メートルの浅井戸用のポンプで汲み上げや邸内への配水が可能だったことになる。

【追々々記】

この、「美珍麗・探訪」というブログ
https://mosu3.blog.fc2.com/blog-entry-117.html?sp
の、この右側の写真
https://blog-imgs-76.fc2.com/m/o/s/mosu3/2015022815385369a.jpg
を見ると…

不覚にも、いままで気づかなかったのだが、ポンプの東側に圧力タンクが残っていることがわかった。

これで、渋谷町水道ができるまでは、この井戸ポンプ・システムが、旧朝倉家住宅の水を賄っていた可能性が高まった。

こうなると、ポンプやタンクの銘板を確認して、製造者や製造年を調査する必要性が出てくる。


■電話

当時の最新の情報インフラだった*電話は、同時にいわゆる「お金持ち」のバロメータの一つだった。

  *ラジオの本放送は大正14年3月開始

交詢社の日本紳士録の第8版(M35)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780097/5
では、当時は、所得税が、公債、株式、債券などからの所得に課されなかったため、これらを主に保有する資産家の掲載もれを防ぐ目的もあって、電話加入者はほぼ無条件で掲載しているほどである。

本ブログ
交詢社「日本紳士録」にみる朝倉家
https://sarugakuduka.blogspot.com/2019/01/blog-post_6.html

のとおり、虎治郎氏は、下渋谷1220在住時から電話に加入しており、
この回線は、同796の(前?)徳次郎氏本宅への移住時にも、保有したまま移設していてることのなる。

旧朝倉家住宅の竣工後には、当然この電話もそちらに移設することになったはずであり、その南東端、台所と中廊下を挟んで西向かいの「事務室」と呼ばれる8畳の和室の南側壁面には、そのための半間(柱の中心間で約0.91メートル)の凹みが設けられ、その奥の壁面に、電話器を取り付けるための板が張られている。



この時点では電話番号は、長芝1130になっていたが
例:T11年版 p.749
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1703976/397
   この時期になると、実弟かつ義弟である八郎氏も掲載されている

さらに下った、
中央区の京橋図書館のアーカイブにある大正15年版の電話番号簿
https://www.library.city.chuo.tokyo.jp/pdf/archives_tel/taisyou15/008_a_01.pdf
によれば、以下のとおり、朝倉家は、店舗を含め4回線の電話に保有するに至っている。

朝倉虎治郎商店        青山36-6247/青山36-2309  豊,下渋谷,749
朝倉虎治郎住宅        青山36-5886        豊,下渋谷,796
朝倉虎治郎商店 中渋谷出張所 青山36-1299        豊,中渋谷,88

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