2019年3月24日日曜日

「木挽き」のチカラ

■旧朝倉家住宅が…

重要文化財に指定されてた際その「附」〔つけたり〕として、その棟札が指定されている。

全高560㎜、全幅157㎜、厚さ23㎜

虎治郎氏の、実弟かつ義弟の八郎氏が筆書したもので、箱に入れられ、棟木に打ち付けられていたという。








最上部に、普請の安全と成功を祈願するカミ5柱の名前が書かれているが、この種の棟札としては、ごく一般的といわれているカミの名であり、特段の特徴はない。





一方、最下部に、各職方の親方クラスが並び
  


中央の 

 
棟梁  秋 元 政太郎【大政】〔だいまさ〕
から右に
鳶頭  齊 藤 淙次郎【鳶淙】
石工  高 田 留 吉【石留】
と並ぶのは、ほぼ定石のようだが(但し、重要な職方である左官が欠落している)、一番右端に

木挽 伊 藤 勝次郎

とあるのに注目された。
 
 ■木挽き、とは…

杣(樵)が立木を伐った原木やそれに準ずる木材を、
 


その木材を、大鋸〔おが:一言でいえば「巨大な縦挽き鋸」、もともとは2人挽きのものを指し、1人挽きのものは「前挽き」という〕で挽いて、
 
 
大工の使う材木
 
 
を仕立てる職方である。
 
 
 
 
*林氏は、世田谷区の次太夫掘(六郷用水〔現・丸子川〕の別名)民家園の長屋門の修復工事のための床板の挽き立ての依頼を受けていたが、その機会に、木挽き作業のデモンストレーションが公開された。
 これが経緯となって、同園ではボランティアによる木挽きの会が結成され、現在も活動中。

■大正中期の…
 
しかも東京で、木挽きがこのような普請の職方の一人として関与するのは、以下の理由から、珍らしいと思われる。

①  明治中期以降はすでに機械製材が普及し、大正時代中期には東京では、機械挽きや材木商に所属していた木挽きの挽いた各種の種類・寸法の木材が「出来合」で入手可能だったと思われること

②  明治初期までは、木挽きは大工、左官、鳶職などと同様各町内にいたが、明治後半以降、木挽きは材木(仲買)商に所属するようになっていたこと
 
 
 
③  そのため「オーダーメイド」の材木が必要でも、材木商に「特注」すれば、店所属の木挽きによる手挽きの材木が入手可能だったはずであること


 しかし、このような環境下で、あえて木挽きを起用するのには、確固とした「目的」と、それなりの「成算」があったからに違いない。
 
 それは、朝倉虎治郎氏が、青年期の職業経験(+縁戚経験)を通じて「木挽きのチカラ」を目の当たりにしていたからではなかろうか? 
 
 
■おそらく…





 
 
【資料編】

我が家の書棚から、四半世紀以上眠っていた本を発掘しました。

わが国大工の工作技術に関する研究
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN00522613

著者:黒 川 一  夫
監修:村 松 貞次郎
発行:財団法人労働科学研究所

書籍の出版は、昭和59年ですが、ガリ版刷り、生写真張り付けの原著の出版は昭和24年。
戦時中の調査・研究に基づくもののようです。

同書のpp.109-112に木挽きについての言及があった。
原著者は、昭和20年代半ばに亡くなっていることから、著作権は消滅していると思われるので、転載することにする。




 鋸挽きは大きな材になると大工では手に負えなくなって-る。すなわち周知の如く木挽職の技術にまたなければならない。現在では製材機が普及されているので木挽は非常にすくなくなってはいるが、それでもこの原始的な技術と労働は僻地において、今なおその存在をみるのである。
 木挽の労働はきわめて重労働である。昔から「木挽一升飯」とか、木挽のことを一名「大鋸」などと、言ったものである。ある文献によると、アメリカでも木挽作業は一日六千カロリーを摂取するとある。もって、いかに重筋肉労働であるかが理解されるであろう。
 したがってこの木挽の労働量の評価は、その賃金算定にもいきおい明瞭に表れてくるのである。すなわち幅一尺の材を標準として単価を決定し、それ以上は幅の増加によって「分」増しとなるのである。その割合はどうであるかと言うと、幅二尺になると、一尺につき五割増、三尺では一尺につき十割増、六尺になると一尺につき二十割増しの三倍となる。これを昔の賃金で言えば、一尺の場合が五十銭、二尺のときが尺当り七十五銭として、壱円五十銭、三尺のときは尺当り一円となって三円、六尺になると尺当り壱円五十銭で九円となるわけである。
 その上昇率はまさに等比級数に近いものがある。もって材の幅が加わることによって、如何にその労働量に影響を及ぼすかを理解することができるであろう。
 木挽職の仕事はこのように大きな労力の負担をともなうものであるために、一方においては彼等は出来るだけ道具にも力学的抵抗がかからないように苦心を施して仕事をやるのである。すなわち鋸の目立のしかたも大工の鋸のそれとは異っていて、図に示すごと-、やすりで「ちょんかけ」と俗に呼ばれる仕掛をこしらえるのである。これによって出来るだけ引っかかりがよく、軽く出せるようにするわけである。
 しかしながらこのへんのところ、如何せん手工的技術のみじめざを暴露せざるを得ないものがある。
 ところが同じく木材を切断するとしても、それが機械化され動力に依存する製材機となると、歯も上述の如き小細工の必要がなくなってくる。つまり機械鋸の歯形は、その巨大なる動力によってしゃにむに動かされるために「ちょんかけ」など無く、堂々たる両も鋭利なる形をとっているのである。
 わたくしは、この木挽鋸の形をみるにつけ、そこに人間が人力そのものを以て大自然にせまっていった或る限界を見せつけられるような気持がするのである。
 ところで前述の賃金の分増しの算定は、単にそれが労働量のみ昆倒したものであるというみかたは、少しく苛酷なる評価のしかたであって、そこには当然技能的な要素も加味されなければならないのである。と言うのは・木挽職の仕事はいかにも単純なものには違いないのであるが、その技能の習得とても決して生やさしいものではない。
 木挽が幅物を挽くときには、まずその姿勢からして、特に整っていなければならない。姿勢が正しく決っていないと、長い時間の間には必ずくせが出てきて、ゆがみが出てくる。「木挽の両足の足跡は一日中変らない-(但し足はときどき前後にかえるが)」とは彼等が如何に姿勢をくずきないものであるかを語るものであろう。身体の重心のとり方が、つねに一定していなければならないわけである。(またそのような事情も手伝って幅物を挽くとき両方から挽くのである。つまり、かけ声をかけながら、お互いゆがまないように注意し合うのである。
 木晩の仕事は姿勢ばかりでなく、鋸の歯ならびに重要なる鍵がある。つまり、「木挽の鋸の歯には三本むらがあったら、挽跡はどんどん曲ってくる。」と言われたものである。木挽の鋸は大工のものと異って歯の数がきわめてすくないからである。
 写真は同じくのこぎり作業の姿勢の側面である。使用されているのこぎりは一尺五寸の鼻丸である。


 「ががり」**を使うときの姿勢
ががりの使い方はのこぎりのやり方とは逆に尻手上りに挽-ことと、なるべくねかきないようにして挽くことが必要である。(材に対する鋸の角度は四五度位のものであろう。)
またそのために鋸の形の方でもそのように作られてある。すなわち既に述べた如く、鏡板の背はほんのりとそって;いかにも軽-出るように見せかけてあるし、柄もほんのりとそって、尻手上りにできているのである。
ががりはのこぎりを使うときよりも長時間続けてやる場合は労働的には楽である。一日の作業量は木挽の場合、幅一尺物を挽き割るとして、延三十尺位のものであろう。写真㈲は同じくががり作業の姿勢の側面である


*  同書が書かれた、戦中、戦後期でも、木挽きはかなり優遇されていたらしい






** 大工が使用する縦挽き鋸
 

2019年3月21日木曜日

旧朝倉家住宅の「進取」

■旧朝倉家住宅は…

「近代和風建築」の範疇にあるといわれる。
しかし、近代和風に区分されている建築物は、あまりにまちまちであり、極端な意匠としては目黒雅叙園(残存している初期の建築物である「百段階段」)

【参考】

目黒雅叙園 百段階段の下から2室目「漁樵の間」


まで、その範疇に入るようであり、ここまでくると「近代和風」という、あえていえば「野放図」な概念自体に存在意義があるのか疑わしくなる。

■このように…

幅が広すぎて捉えどころのない区分の中で、あえて、旧朝倉家住宅をその中の中区分に分類しようとすれば、
・「木」を強調した、古典的な造作といい
鈴木報告書*p.32で、「座敷群には、銘木や豪奢な螺鈿などの細工などはなく」というのは指摘のとおりだし、支払帳**をみても、一般的な建材である、スギ、マツ、ヒノキ以外の、「銘木」レベルと目される木材の購入記録は、楠、ケヤキ(と、米松)に限られていることからも、確かではある。
・控えめの装飾といい
装飾はほとんどが(工期の制約があったのかもしれないが)建具に施された絵画や浮き彫りであり、壁自体に絵付されているのは、2階大座の敷違い棚脇の花頭窓周囲だけと思われる

    
「近代和風」と呼ぶことができそうである。

■それでも…

仔細に見ると、旧朝倉家住宅にも、「近代」言い換えれば「進取」的な仕様をみることができる。

以下は、2019年代官山大学で、時間が余ったときの予備用に作ったプレゼンであり、今後順次解説を補充する予定である。




赤塗が内廊下



江戸期の武家屋敷のような部屋割りの和風の住宅に、「取って付けたような西洋館」が付く
和洋の融合を論ずる以前のプランだが、逆に「洋館がある」ことを強調(自慢?)したい
建て主のニーズには適合していたのではなかろうか。



施主の虎治郎氏のアイデアか、棟梁の大政のアイデアかは不明
しかし、多くの来客のあることが想定された、この住宅には適合している。




ドイツ下見は、下見板自体が壁の一部であるのに対し、
ささら〔筅〕子下見は、その裏の土壁が壁であって、
下見板は風雨からそれを保護するため外部から嵌め込むパネル状の「カバー」である



よくよくみると全く違うデザインだが、違和感なく「つながっている」





通常の天井からのペンダントによる照明(しかも今ほど明るくない)では、2間の境界部に「陰翳」が生じる




どう考えても、吊束両面のブラケットで境界部を照明し、2間続きの宴会に使うための工夫であろう
           * 確か、山名先生から伺ったのだと記憶しているが、吊束のブラケットは他にも類例があるらしい

2019年2月6日水曜日

「キンキのおばさん」

■虎治郎氏を…

ときおり訪ねてきたという、「キンキのおばさん」という上品な老婦人がいたという。

「猿楽雑記」p.153の、朝倉徳道氏と岩橋謹次氏の対談によれば

〔徳道氏〕「虎治郎は小学生頃に木場の材木店に働きに出されていたようです。私の昔の記憶に「キンキのおばさん」という名前があるんです。家によく来ていたという記憶がある。品のよいおばあさんで、加賀の千代女とつながりのある人だ、と聞いたことがあります。旧宅調査をされた東大の鈴木先生の意見では、キンキというのは木場にあった「近江屋喜助材木店」のことではないか。」

また、
「朝倉虎治郎翁事績概要」 の p.2 には、

「虎治郎は愛知縣碧海郡旭村の富商杉浦太一の次男にて、東京深川木場に於てありて近喜と稱されて著名なりし材木商近江屋喜助と縁戚なる關係に依って、この縁組が成立したのである。」

とある。

■これらによれば…

近江屋喜助という材木商*は、近世から続く老舗と思われたことから、国会図書館・蔵の

「諸問屋名前帳57巻・ [35] 材木、熊野炭」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2548756

を見たところ、以下のデータに行き着いた。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2548756/38
 
*「材木商」といっても、江戸時代終盤近くまでは、材木問屋〔といや〕と材木仲買商とは、可能な取引形態が裁然と区別されていた。
 「近江屋喜助」商店は、後記のように材木問屋の系列の「材木商」らしい


■この…
 
「諸問屋名前帳」なる帳簿、解説によると
 
嘉永4年(1851)諸問屋再興以来の諸問屋および商工組合の連名簿で、各その住居を記し、実印を捺している。58冊。廃業者または他人に譲渡したもの、新規加入のあった時には書き加えて幕末におよんでいる。…書継の内容は、新規加入、相続、譲渡、改名、転宅、家主・店支配人の変更などに及んでいる。

とされているので、この近江屋喜助の材木店は

嘉永4年ころは、白魚屋敷(現東京駅八重洲南口東方)で「地借」つまり借地上に店を構えて営業していたところ、
文久元(1861)年に、深川大和町の「家持」になって、つまり、いわゆる「沽券」を取得して自前の土地・建物で営業するようになった

ことになる。
(なお、右側の白魚屋敷の喜助と左側の深川大和町の喜助とでは印影が異なるので、後者は前者の後継者であろう。)

■この店は…

「日本全国商工人名録. [明治25年版]」日本全国商工人名録発行所/1892・刊

のp.135
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994140/169

に、以下のとおり掲載されていて

住所が深川区大和町で文久期のそれと一致している

山田喜助という実名も判明した。

■しかし…

大正13年発行の
東京土木建築総覧 : 横浜ヲ含ム
(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979159)
昭和15年発行の
帝国産業興信録 : 京浜及び附近. 木材編
(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1055955)
には、この近江屋または山田喜助の記載はない。


■なお…

「諸問屋名前帳」に、熊野問屋、板材木問屋とあることは、この近江屋喜助が、「いわゆる〔とんや〕」ではなく、委託売買を行って手数料収入を得るという、「正真正銘の〔といや〕」であることを示している。

これら問屋の起源については

東京材木商協同組合「東京の材木仲買史」同/1966・刊 p.249
の、以下の説明がわかりやすい。

「深川木場材木問屋及び川辺竹木薪炭問屋と並んで文化年間より材木三問屋と呼ばれた板材木熊野問屋は、「御用材木屋」の流れをくむ最も古い伝統を有していた。延宝年間仲買・問屋の分離により、板材木問屋と熊野材木問屋の二つの問屋仲間が結ばれていたが、宝永年間(一七〇四)に御用材運送中、羽根田沖で廻漕船が難破したとき、両問屋が協力して、その材木を取り纏めて築地明石町へ運び込み無事に御用を果したことが動機となって、松野壱岐守が町奉行のとき、連合して「板材木熊野問屋」と唱えるようになった。しかしこの時の連合は合併でないから其の後も内部的には二つの形態をとっている。板材木の方は天龍川流域から産出され、掛塚湊から船で入荷してくる出来合品の樌、板割や、熊野問屋と合同してから縁故の生じた新宮の中板等を扱って「羽柄問屋」と呼ばれるようになった。
また熊野問屋の方は、元来大和国の年貢樽木を熊野廻りで江戸の材木蔵に納入する仕事が主であったが、輸送の関係で次第に紀州藩と縁が深くなり、延享二年三月、同藩の藩有林材の江戸仕入方(販売所)が八丁堀にできてから、藩の後援を得て、その売り広めを手伝うようになった。また中には新宮湊から積出される板類や小角を主として取り扱って、前記板材木問屋と同じような業態となり共に羽柄問屋と呼ばれるようになった店もある。」





【追記】

最近になって読むことができた、ある資料によれば、虎治郎氏と近江屋とは以下のような関係と想像される。

(おそらく小学校高等科卒業後の)13歳で叔父にあたる山田喜助に伴われて上京する。

喜助は、その経営する深川区大和町の材木問屋近江屋【ここがキンキこと近江屋】の後継者として、いずれ養子にすべく虎治郎氏を杉浦家 から引き取っている。

虎治郎氏は、近江屋にしばらく寄食後、その年の10月、いわば修行のために、神田材木町の材木商中村庄次郎に預けられた。*

19歳まで村田屋に勤務した後、近江屋に帰り、20歳の折の徴兵検査を経て21歳で入営するまでは、近江屋で仕事をしていたと思われる。

*前記、明治25年当時の「日本全国商工人名録」によれば、
近江屋 山田喜助は、深川区大和町13(現江東区冬木18-3)に
村田屋 中村庄次郎、神田区材木町14(現千代田区岩本町1-8-1)に
それぞれ店を構えていたことが判明している。

*材木の業界では、おそらく江戸時代からの伝統で、実子でも経験・知見を積ませるために、業界内の他業種に預けたようである。
  明治20年近くの時期になると、江戸時代の幕府のルールに基づく業態の区分けは「あいまい」になりつつあったようだが、原則的には、近江屋のような材木問屋〔といや〕 は、山持など荷主の依頼で、仲買人に材木を売却したり、逆に仲買人の依頼によって山持などから木材を購入して、いわゆる「利ざや」ではなく「手数料(口銭)」 を貰う仕事であり
  仲買人は、問屋を通じて仕入れた材木を、大工や船大工に売却して(したがって、仕入れた木材はこれらのプロにまとめ売りするので、この業界では「小売業」は成立していなかった)「利ざや」を稼ぐ商売。
  そのような業界なので、自家にいては、材木問屋では材木店の細かい仕事はわからず、逆もまた同様なので、材木の流通過程を全て知ることはできない。
  そのため、山持などの荷主は後継者となる子弟を問屋に預けたり、問屋が子弟を仲買人に預けたり、逆に仲買人は問屋に預けたりして、木材の流通過程全体を理解させるのが一般的だったようで、そのような慣行もあって、問屋である近江屋は、業態の異なる仲買人である村田屋 に虎治郎氏を預けたのだと思われる。

 しかし、近江屋に戻った虎治郎氏は、近江屋の後継者争いに遭遇し、村田屋で「江戸前」のさっぱりとして気風に染まっていたせいもあるのかもしれないが、あっさりと、そこから、逃げ出したのではないかと思われる。

2019年2月1日金曜日

虎治郎氏の煎茶

■渋谷区教育委員会の…

「旧朝倉家住宅 保存管理活用計画案策定報告書」平成17年10月(以下「保存活用案」)
中
参考資料―朝倉徳道氏、健吾氏への聞き取り調査
                    実施日時:2005年 9月28日PM2:00-PM4:30
によれば

・現在の敷地の西側下方に、弓道場がありその横に茶室があった。…茶室は昭和10年位に作り四畳半であった。流派は江戸千家で母(ヒサ)がやっていた。
・本宅内の茶室では、煎茶をやっていたようである。祖父(虎治郎)は煎茶が好きで、杉の間でよく飲んでいた。…

とされ、

また、「猿楽雑記」*p.125
でも

・角の杉の間…は虎治郎が一番多く客と会う部屋である。廊下側の隅に瓶掛け(鉄瓶を掛けた火鉢)を傍にして座り、自分で煎茶を入れ客に供した。

とあり、従前は不明だが、少なくとも、朝倉徳道氏(S06生)が「物心ついた」昭和10年ころ以降は、その祖父虎治郎氏は、もっぱら、抹茶ではなく、煎茶を愛好していたことが判る。

*朝倉徳道編著・同/2007・刊

■したがって…

旧朝倉家住宅の新築後、「猿楽雑記」の口絵「建物配置図昭和12年頃」





からみると早くても昭和12年以降に増築されたと推定される、主屋北西端の茶室のデザイン(意匠・仕様)についても、抹茶道ではなく、煎茶道との関係で検討する必要があることになる。

なお、

「鈴木報告書」*では、この茶室について
「外壁にへぎ板を張るなど内外の随所に野趣を見せ、形式的にもにじり口や貴人口も持たぬ 自由かつ略式の、いわゆる田舎造りの茶室である。」
と評している。


*東京大学大学院工学系研究科建築学専攻鈴木研究室「旧朝倉邸(渋谷会議所)調査報告書(仮)」2002年3月

しかし、調べてみると「にじり口〔躙口〕」は抹茶席独特の出入口で、煎茶席には存在しないようなので、上記評価は標準的な抹茶席を基準としたものであることがわかる。

この「鈴木報告書」には、煎茶と虎治郎氏の関わりについては言及がなく、後の「保存活用案」にで、煎茶道に関連の深い「中国趣味」の影響という観点から言及されるに至っている(pp.57・59)ことからみて、そもそも、鈴木教授の当初の調査時には、煎茶と虎治郎氏との関わりが判明していなかった可能性がある。

加えて、煎茶では、涼炉と呼ばれる置炉を用いる

https://www.yomiuri.co.jp/chubu/feature/CO022951/20181014-OYTAT50017.html


なお、尼﨑博正/麓和善/矢ヶ崎善太郎編著「庭と建築の煎茶文化」思文閣/H31・刊 https://www.shibunkaku.co.jp/publishing/list/9784784219445/ (余りに高価なので未読)

出光美術館・蔵
 人物(青木木米〔もくべい〕)の右膝の前にある、上に急須状の器(急備焼〔きびしょう〕)を載せている円錐台形のものが「涼炉」
 なお、当時は、今と違って、茶葉を急備焼で直接煎じていた

ので、原則として囲炉裏は切らないのに対し、この茶室には半間というか畳の短辺幅四方の炉*が切られている




ことも、煎茶室である可能性を想定できなかった理由かもしれない。

【付記】しかも、天井の竿縁には蛭釘もある
炉の中心を少し外れているが理由・目的は不明

*もっとも、抹茶の茶室の囲炉裏の幅は、武野紹鷗が定めて以来1尺4寸四方とされているそうなので
 (松平直敬「茶道通解」青山堂/1909・刊 p.70 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860691/49 )、
 半間(3尺)四方の炉は、抹茶席として異例ということになる。


【追記】
昭和の前期に住宅設計で活躍した建築家の著書
山田醇「家を建てる人の爲に」資文堂/S03・刊
に掲載されているその設計例をみると、28+1例中、8畳和室の端に半間四方の囲炉裏を切っているものが14例(他に8畳の主人室の通常の位置に1.4尺の炉が1例)もある。
このことは、これが山田の「趣味」というばかりでなく、建築主にとっても、この「半間囲炉裏」に違和感、抵抗感が無かったことを示しているといえ、これが、大正中期ころ以降の一種の流行だったのかもしれない(通常の居室に設えれば「すきやき」も可能であるし。)

 

■ところで…
煎茶を愛好した江戸時代の著名人の一人として、紀行文集「遊歴雑記」の著者である、十方庵敬順という人がいる。

釈敬順などとも名乗ったことからも推測できるように、この隠居した僧侶は
http://www.maroon.dti.ne.jp/kwg1840/kikou.html
の
第三話 老人は郊外をめざす――『遊歴雑記』を読む
二幕 隠者のように
のとおり


「眺めのいい所に野蒲団(ピクニック用の敷物)を広げて」「川の清流を汲んできて」「「帖昆炉(たたみこんろ)」(携帯こんろ)で湯を沸かし野点」をし、「長崎屋の丸ぼうると越後屋の塩釜」を茶菓子に煎茶を楽しんだ。

と、されている。【↓後述「追々々記」】

この敬順師の行状は、本人も書いているように、当時の人々の目からみても、相当奇異に見えたようであるが


猪瀬弘義「植治の庭における煎茶的発想」(以下「植治」)

https://ci.nii.ac.jp/naid/110004307995

にあげられている
「山林の面白き所、「水石の清き所」」「随所に茶を煮る」
あるいは、
池よりも川を好む
という、煎茶道のまさに「オ―ソドクスな常道」を行くものともいえ、同師は「ただの変わり者」ではなかったのである。


【参考】
「西湾茶会図録」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563615/20

■同様に…


煎茶の世界では

北岡秀和/麓和善「煎茶図録における煎茶席の室内意匠について」
日本建築学会 「学術講演梗概集. F-2, 建築歴史・意匠」(1996) pp.135 --136

http://id.nii.ac.jp/1476/00004423/

の図版がわかりやすいが、屋内であっても、極端な例としては、建具を取り払ってただ高欄(欄干)だけがあるといった開放的な、言い換えれば「まるで野の中にいるような」空間が好まれていたようである。


前掲論文図版
「文房の茶」「文人の茶」なので、文物を飾り並べて、それらを題材に会話を楽しんだらしい。
小規模な本草会〔ほんぞうえ≒博物学会〕、古物会〔こぶつえ≒考古学会〕などと通底するサロン的な活動といえる。

先に、旧朝倉家住宅の増築経過をトレースしているとき
 新築当時の旧朝倉家住宅
 https://sarugakuduka.blogspot.com/2019/01/blog-post_26.html
に気付いたことなのだが
この茶室は、
・目黒川の谷越しに対岸にある祐天寺方向の台地を見はらせる方向に大きく窓を開くほかに
・三田用水の水を落としたとされる、邸内の人工の渓流に向かって窓が開かれて、渓流の音を聴くのに最適というかむしろ間近に聴くにはほとんど唯一無二の位置取り
にあるし、


この「趣向」は(音については距離や傾斜の違いからやや劣るとしても)杉の間にもほぼ共通しているようである。
額入障子を効果的に使える場所といえる



あるいは、虎治郎氏は、よりよい景観と水音を求めて、何度も東光園に命じて植木を移動させたり流れを作り変えていたのかもしれない。

【補記】
「活用案」のp.59に

「煎茶の庭の特徴とされるのが「流れの蹲踞」と「降り井戸」であるが、旧朝倉家庭園にはこ
れらが2つとも存在する。
」


とあり、また、p.56の上の図中に

おり蹲踞

の文字がみえるが、いずれも、具体的な位置や形状はあきらかではない。

 *場所についてご教示を受けて判明したので、近日中に写真追加予定

【追記】


 「降り井戸」はまだ不明ながら、「降り蹲踞」ならば、18年1月に、杉の間から撮影した写真があった。

降り井戸の「見立て」といえるのかもしれない
余談ながら、手前の地表の霜柱の跡も妙になつかしい


【追々記】
2019年3月15日、流れの蹲踞を撮影してきた

腰掛待合跡の上流方向筋向いにあった
右手前から左中央やや下に水路がある

【追々々記】十方庵敬順師の「帖昆炉」

「山林の面白き所、「水石の清き所」」「随所に茶を煮る」を「文字通り」に実践した、十方庵敬順師の、嗜好というか奇行を特徴付ける物に、野布団〔和紙に油をしみ込ませた油紙に厚手の木綿地を縫い付け、その中央部に頭を通すスリットを開けた、ポンチョ兼キャンピングマットのようなもの〕と並んで、帖昆炉〔携帯用コンロ〕がある。

しかし、前者については、その著書の「遊歴雑記」中に挿絵がある
のに対し、後者については、その名前以上のことは解説がない。
(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952977/186参照)

ただ、「帖」〔たたみ〕と名づけるからには、単に携帯用というわけでななく(そもそも、前掲の青木木米の絵でもわかるように、煎茶の涼炉は抹茶の風炉と違ってコンパクトなので「取っ手」なり「ケース」なりを工夫すれば、そのまま携帯できるはずである)、折り畳める、英語でいえばフォールディングな焜炉と考えるほかない。


【参考】
近現代の帖昆炉:オプティマス 8R

もう何年も前になるが、ネット上でようやく見つけた、ヒントになりそうなものが、この
http://www.page.sannet.ne.jp/rokano28/edo/tabi3.htm
ページの3段目に写真のある「携帯用酒温器」だった。

とくにWeb Masterにお願いして送っていただいた詳細な写真のうち、1枚がこれ
岡野亮介画伯ご提供

で、酒を燗する部分は折り畳めないが、火を起こす焜炉の部分は、銅板を巧みに細工して折り畳んで厚さ1センチほどの板状になるようになっていて、焜炉の部分だけなら懐に入れて持ち運ぶことは可能である。

これと、茶葉と急須〔ボーフラ〕と茶碗があれば、
・水は、最寄りの川の水を汲み
・火は、そこらの、枯れ草を火付けに、枯れ枝を燃料にすれば
茶を煮る〔当時は、茶をボーフラで直接煎じていた〕ことが可能である。
(火点けをどうしたかは不明だが、火打ち石を使うなりあるいは火縄を持ち歩いたのかもしれない)。

【追記】19/05/29

最近になって「これでしかあり得ない」という画像を見つけた
https://www.facebook.com/rocaniiru/posts/1894370463924609/

【追々記】21/03/02

長年の念願がかなって「これでしかあり得ない」という現物を入手できた




【追記】

遊歴雑記を著した敬順師が、江戸近郊のどのような場所で「煎茶を煮た」のかについて
上記のように「帖昆爐」と思われるものを入手した
のを機に、歌川廣重や江戸名所図會の絵をてがかりに調べ始めた。
今後、ここ
に、順次追記してゆく予定である。



2019年1月26日土曜日

新築当時の旧朝倉家住宅

■故朝倉徳道氏が…

刊行した「猿楽雑記」(同氏著/2007・刊)の口絵に
「建物配置図昭和12年頃」
と題された、旧朝倉家住宅と現・ヒルサイドテラスやデンマーク大使館を中心とする、往時の朝倉家所有地の略図がある。

 
 


しかし、この略図に描かれている旧朝倉家住宅の外形は、明らかに現在のそれ(下図)とは差異がある。


「鈴木報告書」(後記)中の、旧朝倉邸1階実測図
 
■朝倉家の方々の…

お話では、冒頭の図は、朝倉徳道氏が作図したのではないかとのことである。

東大の鈴木教授による徳道氏らからの聞き取り結果、言い換えれば、朝倉家に遺る「記憶」については、

東京大学大学院工学系研究科建築学専攻鈴木研究室「旧朝倉邸(渋谷会議所)調査報告書(仮)」2002年3月(以下「鈴木報告書」という)

中にまとめられているが、旧朝倉家住宅の変遷については、

「西の廊下と北の廊下の端は、北西の平屋に接続している。この北西の棟は虎治郎の息子誠一郎一家が使用していた。建物は当初、東から風呂場、6畳の居室、8畳の居室からなって いたが、まもなく新しい風呂場が元の風呂場の北側に新設され、昭和15、5年頃に8畳の北側にさらに6畳の居室が増築された 。」

「『角の杉の間』と次の間の北側には廊下が通され、それを西に進むと茶室があるが、これ は新築当時無かったものが朝倉家の所有中に増築されたものである。茶室の北側には蔵が あり、室内から直接入る。」 
「茶室は炉のある6畳、北側に控えの5畳(『蔵前(の部屋)』と呼ばれた)という構成だ が、…南西*の棟の廊下から「蔵前」へ至る廊下も後に設置された。」(以上、各p.24)

*杉の間等のある「南西の棟」から蔵前に通じる廊下は、存在しないので「北西」の誤記と考えられる。

と、されている。

■このように…

頭書の図は、朝倉家に遺る「記憶」と整合していることがわかる。

また、朝倉家の方々のおお話では、従前、徳道氏が保管していた文書中に、旧朝倉家住宅の新築当初のものと思われる簡単な図面が存在したとのことである*。

頭書の図を拡大すると、下図のとおり、建物の外形が実線と点線で描き分けられているが、単に記憶を再現したのであれば、このような描き分けをすることは考えにくいし、その必要もない。

とくに、蔵が点線で描かれていることからみで、たとえば、図面上で、棟梁だった「大政」こと秋元政太郎の差配する範囲と、他の施工者が差配する範囲**が描き分けられていたので、頭書の図でもそれを踏襲していた可能性が高い。
 


*鈴木報告書作成の資料として同教授に預託したものの、教授がほどなく亡くなったこともあって、その後の図面の消息が不明となっており、朝倉家には現存していない由。

**土蔵も、躯体(骨組)は木造であるが、内部の空間を広くとるために、特に小屋(屋根)の構造が一般住宅と異なるようである(日本民俗建築学会「民俗建築大辞典」柏書房/2001・刊 p.69)




















【追記】2023/06/18
都市整図社「火災保険特殊地図 上目黒 No.13」同社/1935・刊
右中央上が朝倉家住宅。当然、徳次郎氏隠居所も残る。
しかし、それよりも、
そのやや左(西)の改修前の旧山手通に面する朝倉精米所と
その南にあった同社の倉庫群の位置などが明らかになったことは貴重である。




■以上の…

 前提を踏まえた、旧朝倉家住宅の当初の姿、いわゆる「原状」は以下のとおりとなる。

 






とくに、家族室のうち、6畳間と元の浴室の部分は、鈴木報告書に従えば「北」、実方位では「略東」方向に半間(0.91メートル)広げられたことになるが、現在 管理事務所として使われている「第2会議室」のこの部分の天井は(実方位の)西側のそれより下がっており、手が加えられていることを明確に示している。

写真右上に天井のf段差が見える



 ただし、難点を挙げれば、浴室が現在のそれに較べやや広すぎるところにある。
わざわざ、新たに浴室


を増築するにあたって、従前より狭いものにすることは、考えにくいのであるが。


2019年1月23日水曜日

旧朝倉家住宅の内玄関東の物置

■地図でみる経緯

M42測T05修測_三田〔抜粋〕

 この地図をみると、現在の旧朝倉家住宅の建っているあたりは、この時点ですでに宅地化されていることがわかる。
 一方、現ヒルサイドテラスのE棟、C棟、ヒルサイドプラザのあたりは山林。
 この年、徳次郎氏没。同氏の隠居所【参考図1】は83番にある小さな四角形(【参考図2】を見ると実際にはかなり大きい建物)、その
 北の大ぶりな略L字型【参考図2・右上】の建物が同氏の旧宅と思われる。

 この地図の、現ヒルサイドテラスとの境界近くに、物置のような建物が2棟ある

 
 

M42測T10修測二T12?鉄補_三田〔抜粋〕

 旧朝倉家住宅が描かれている。
 上図と等高線を比較すると同建物の地盤を造るために、建物南南西の傾斜地に盛土をしているらしいことがわかる。

 この時点で、上図の物置状の建物の2棟のうち、東側の棟は残存している




M42測S03修測三_三田〔抜粋〕

 旧朝倉家住宅がなぜか従前より小さめに描画されている。
朝倉精米所は水車記号が消え、完全に電動化していると思われる。

 この時点で八幡通りは拡幅されているので、それに合わせて旧山手通りの原型の道路も目切坂道との交差点付近で約3メートルほど掘り下げられ、三田用水路の、暗渠化や鎗が埼のサイフォン化が行われていると思われる。
 現・ヒルサイドテラス敷地の樹木記号が激減していることから、ここが、掘り下げのため低くなった水路高に合せて、従来の水路の土手を含めて切土されたと想像される

 従前からの物置状建物は、まだ残存している



■丁寧な仕上げ

 以下の写真のように、物置としては細部に凝っていて、大正8年築造の「オリジナル」あるいはそれ以前の築造かどうかは別として「タダモノでない」ことがわかる。


外壁
 
「筅子下見」
 
 基礎の大谷石
 
人工的に「丸み付けををしている
 
 旧朝倉家住宅以前に建築された可能性もあるので、躯体の仕口その他内部の仕上げなど、一度詳細な調査が必要と思われる。

【参考図1】徳次郎氏隠居所

「猿楽雑記」より

【参考図2】徳次郎氏の本宅(右上)、隠居所(左上)の実測図


朝倉家文書より(岩橋勤次氏複写)